小説で描いた築山殿と家康の異父弟の知られざる逸話
家康の同母弟に松平康俊という人がいます。家康の母である於大の方が、岡崎の松平から離縁され、実家の水野家に出戻ったあとで、知多半島の久松家に再嫁して、生まれた子です。家康同様に今川に人質に出され、そして、家康と武田信玄が駿河を同時侵攻したさいに武田に身柄を奪われて、甲府に連行された男子でした。
家康は、この弟を甲斐から脱出させるのですが、冬季で雪に埋まる中部山岳地帯を踏破させたため、凍傷によって両足の指すべてを失ってしまいました。大河ドラマ「どうする家康」でもそのシーンは描かれましたが、これも家族だからつらい目に遭わせてしまったといえるでしょう。最終的には駿府城の本丸ともいえる久能城を、家康はこの弟に与えています。
徳川家の犠牲になった築山殿の霊を慰めようとしたのでは
康俊は天正14年(1586)に35歳の若さで亡くなるのですが、その墓は築山殿の墓の隣に建てられているのです。浜松の西来院という禅寺です。私は『季刊清水』という雑誌にこの康俊のことを書こうと思い、墓参したのですが、そのとき隣に築山殿の墓があるので、とても驚きました。築山殿の墓はそれ以前に訪ねていましたが、隣に康俊という人の墓があるなどとはそのときはまったく気づかなかったのです。同じ場所に二度行っても、気づくのと気づかないのとでは、見えてくる景色がまったく違うのです。
康俊の戒名は、「善照院殿泉月澄清大居士」。
「澄んだ月が泉に照る」という意味です。きっと康俊は、清らかな心の持ち主だったのでしょう。
直感しました。康俊は築山殿を慰めるために、みずから望んで、ここに葬られたのだ、と。そうとしか考えられません。徳川家の誰もが、「神君家康による妻子殺し」という拭い難い汚点を気にかけていたはずです。康俊は、恨みを抱いて死んだ築山殿に寄り添うことで、未来永劫、徳川家を守ろうとしたのではないかと思います。