武田家滅亡の要因になった高天神城
この戦いについては多くの人が書いているので、簡単に記すにとどめたい。家康が信長に出陣を要請すると、畿内での三好氏や大坂本願寺との戦いがひと段落ついた信長は、勝頼は手ごわいと認識していたこともあって受諾。5月13日に岐阜を発ち、14日に岡崎で家康と信康の出迎えを受け、18日には長篠城の近くの設楽原に布陣した。
酒井忠次率いる別動隊が、武田方の長篠城包囲の要である鳶ヶ巣山砦を落とすと、退路を断たれた武田軍は織田・徳川連合軍の陣営に突撃するが、当時としては異例の馬防柵と鉄砲に阻まれて大敗。馬場信春や山県昌景をはじめ、名のある武将たちが多く討ち死にした。
この敗戦は勝頼にはあまりに痛手だった。もはや他国を攻略している余裕はなく、本拠地である甲斐(山梨県)への後退を余儀なくされ、一方、信長と家康は失地挽回を急いだ。
家康の場合、戦勝直後の5月下旬にはみずから進軍して、これまで武田軍に攻略された城を奪還していった。二俣城、光明城、犬居城(いずれも浜松市天竜区)を落とし、続いて諏訪原城(静岡県島田市)を攻略している。
だが、武田氏が滅亡するのは天正10年(1582)3月と、長篠・設楽原の敗戦から7年後である。勝頼はしぶとく、後退しながらも体制を立て直しては家康を苦しめつづけた。そして、勝頼による体制立て直しの要が高天神城だった。
同盟相手の北条氏政を怒らせる
高天神城はかつて家康方として城主を務めた小笠原信興が、降伏後も武田方として城主の地位にとどまっていた。勝頼はこの信興を転封にして高天神領を直轄領にし、今川家旧臣の岡部元信を城代にした。さらに城域を拡大し、守りを強化している。
一方、高天神城の奪還をめざす家康と勝頼の攻防戦については、家康家臣の松平家忠が記した『家忠日記』に記されている。それによると、天正5年(1577)閏7月、家康みずから高天神城を攻撃し、勝頼も出陣して応じたが、秋以降、両軍による大規模な戦闘はなかったという。
その後、勝頼は江尻城(静岡市清水区)、田中城(静岡県藤枝市)、小山城(静岡県吉田町)というラインで高天神城の後詰(後方からの援助)を行った。対する家康は、翌天正6年(1578)7月に高天神城攻略の最前線として横須賀城(静岡県掛川市)を築き、背後の懸川城(掛川城)と、諏訪原城を改名した牧野城で牽制した。
こうして一進一退の攻防が繰り広げられたが、勝頼は天正7年(1579)11月を最後に高天神城の後詰を行っていない。原因は外交戦略の失敗にあった。
その前年3月、越後(新潟県)の上杉謙信が急死すると、謙信の甥の景勝と、養子で北条氏政の弟の景虎との後継者争いが起きた。結局、景虎は自刃して景勝が後を継いだが、景勝を支援した勝頼の対応に北条氏政が激怒。武田氏との同盟を破棄し、以後、駿河方面の国境を盛んに攻めるようになったので、勝頼は遠江への出馬が難しくなったのである。