徳川家康が最も苦しめられた敵将
徳川家康は武田氏に苦しめられた。家康が天下人になるまでの道程で、もっとも苦しめられた敵が武田氏であることは、あらためて指摘するまでもない。
元亀3年(1572)10月、家康の領国である遠江(静岡県西部)に攻め入った武田信玄は、家康方の城を次々と落とし、三方ヶ原合戦で家康軍を完膚なきまでに打ちのめした。家康はまさに絶体絶命のピンチに陥ったが、同4年(1573)4月、信玄が急逝したために助かった。
だが、家督を継いだ四男、NHK大河ドラマ「どうする家康」では眞栄田郷敦が演じる勝頼が手ごわかった。勝頼の軍事行動は天正2年(1574)からにわかに活発化し、徳川方ばかりか織田方の城や砦も次々と攻め落とし、東美濃(岐阜県南部の東側)や奥三河(愛知県東部のさらに東北部)のかなりの地域が、武田の軍勢に攻略された。
そのうえ同年5月、勝頼は2万5000人といわれる軍勢を率いて遠江(静岡県東部)に侵攻し、徳川方の重要な拠点である高天神城(静岡県掛川市)を攻囲。7月には城主の小笠原信興(氏助)を降伏させてしまった。
だが、この高天神城にこだわり続けたことが、武田家滅亡の最大の要因になったのだから、なんとも皮肉である。
なぜ嫡男と正妻が武田家に内通していたのか
高天神城が奪われたのちも、徳川は武田方にやられっ放しだった。だからこそ天正3年(1575)には、「どうする家康」の第20話(5月28日放送)「岡崎クーデター」で描かれた大岡弥四郎事件が起きた。領国を維持するためには武田の力を借りたほうがいいと考える家臣が多数におよぶほど、家康が劣勢だったということである。
そして、同7年(1579)に家康は正室の築山殿を、武田方に内通していた疑いで死に追いやり、嫡男の信康に切腹を命じなければならなくなった。
恐らくは、勝頼の調略の手が築山殿に伸びていたのだが、もとはといえば、このままでは徳川家の領国を維持できないという不安を、妻子までが抱いたことが原因だった。
話は前後するが、大岡弥四郎事件の直後、天正3年(1575)5月に、勝頼は奥三河の要衝である長篠城(愛知県新城市)の攻略に向かった。そうして起きたのが5月21日の長篠・設楽原合戦で、織田・徳川連合軍が圧勝したことはよく知られる。