いまでも忘れません。活動報告会を兼ねた最初の集会を、地元の公民館の和室を借りて開いたんです。それこそ小学校時代の卒業生名簿をかき集めたりしながら、事前の挨拶回りをたくさんして、自分で座布団を50枚くらい敷き並べて準備したことを覚えています。
当日、緊張感いっぱいで迎えた開始時刻になって、来たのは1人だけでした。
その方も、私も、いずれもっと集まってくるだろうと思っていた。しかし、待てど暮らせどほかには誰も来ない。目の前のそのたった1人に帰られてはいけないと、用意してきた原稿や資料を基に、県政にかける思いを必死に語りかけました。
まるで1対1の家庭教師です。がっかりしたのは私だけだったではないでしょう。その人は最後までおつきあいいただいて、「がんばってください」と言って帰られました。小川さんという学校の先生で、私の支援者第1号になってくださいました。
「これじゃ選挙で勝てっこないですよ」
このさんざんな最初の集会について、当時ご存命だった松下幸之助さんにご報告に伺ったんです。「一生懸命に人を集めようとしましたが、1人しか来ませんでした。これじゃ選挙で勝てっこないですよ」と。松下さんは、「わしだったらね……」とほほ笑んだんです。
「人がいっぱいいる前に立って、皿回しをやる。さらにマイクとスピーカーを用意してしゃべればいい。もっと人は集まる」――。
なるほど、さすが松下さんは知恵者だと、目からうろこが落ちる思いでした。しかし、皿回しをするには技術がいります。私にその技術を習得する時間はありません。要は人に話を聞いてもらうきっかけをつくればいいだろうと考えて、毎日、朝早くから街頭に立つようになったんです。
忘れもしません、37年前の1986年、10月1日からJR津田沼駅に立って、2日はJR船橋駅、3日が西船橋駅……という具合で、平日は毎日、街頭に立ちつづけました。
爽やかな秋晴れの朝、通勤・通学に急いでいる人ばかりでみなさん通り過ぎて行く。手応えらしきものはゼロでした。これまた失敗だったのかもしれませんが、2カ月たち、3カ月がたって、だんだん寒い季節になってくると、「毎朝大変ですね」と使い捨てカイロを持ってきてくれたり、のど飴を差し入れしてくれたりする人が現れてきたんです。
駅前に立ち続けて感じた人々の変化
誰もが無関心なのではなく、気づいてくださっている方もいるのだと、ありがたさが身に染みながら、ビラもそのころから配り始めました。
私が毎朝、街頭に立つようになって半年がたつという翌1987年の春ごろになると、4月の県議選が近づいてきて、現職や大物候補たちがみんな多くのスタッフとともに街頭に出てくるんです。いくら半年つづけていたといっても、私のように政党の支援も推薦もない新人は、埋没してしまう。