老後の思い出に一夜でも天下を

婿の弥平次秀満(左馬助光春)や斎藤内蔵助利三(春日局の父)らを呼び、信長に対する遺恨の次第を訴えるとともに、「老後の思ひ出に一夜なりとも天下の思ひ出をなすべし」(『川角太閤記』)と同意を求めた。

いったん口にしたうえは、決行するしかない、と重臣たちを説き伏せたとも。彼ら重臣たちは、光秀の言葉にしたがい、本能寺へ殺到した。

本能寺 本堂(画像=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

通史では、6月2日午前6時頃、信長は寺の表の騒がしさに目を覚ましたとある。最初、喧嘩でもはじまったのかと思ったらしいが、やがてときの声が上がり、鉄砲の音が聞こえてきた。「これは謀叛か、如何なる者のたくらみぞ」信長の疑問に、次室で宿との直いをしていた森蘭丸(森可成の次男)が物見に出、馳せ戻り、「明智が者と見え申候」と言上した。

聞くなり信長はただ一言、「是非におよばず」とのみ述べた。そして信長は、表御堂に駆け出し、自ら防戦に参加する。はじめは弓を射たが、無念にも弓弦ゆづるが切れた。そこで今度はやりをとって戦ったが、肘に鎗疵そうひをうけて、ついに動けなくなる。

御殿内に退いた信長は、「女はくるしからず、急ぎまかり出よ」婦女子を脱出させるゆとりをみせ、火を発して燃えさかる殿中深くヘわけ入り、内側から納戸の戸口を閉ざし、さらに障子をつめ、室内に座り込んだ。

4時間ほどで信長親子を倒した

本能寺の異変を妙覚寺(現・京都市上京区)で知った信忠は、父の救出に向かったものの、途中、落去したことを村井貞勝から聞き、手勢をつれてすぐ近くの押小路室町の二条御所(二条新御所)に移った。

二条御所には誠仁さねひと親王(正親町天皇の第一皇子)があったが、信忠は包囲軍の光秀に了承をもとめ、親王を落してのち、奮戦し、午前10時ごろ、ついに力尽きて自刃して果てた。

そのあと、御所を火炎がおおった。本能寺の変では多くの織田家家臣が、本能寺、二条御所に分かれて華々しい討死を遂げている。

――独裁者は死に、叛逆者は天下を取った。この『信長公記』(太田牛一著)を中心として伝えられてきた通史には疑問点が多い。が、ここではテーマが異なるため置く。