鎌倉幕府2代執権・北条義時を支えた三浦義村とはどんな人物か。歴史評論家の香原斗志さんは「史実をみれば、一族の存続を第一に考えていた武将だ。そのために、義時に近づき、どんな仕事でもこなした。NHK大河ドラマで描かれたように、打倒北条の機会ばかりをうかがっていたとは考えにくい」という――。
俳優・山本耕史(=2019年5月30日ティファール新商品発表会。東京都渋谷区)
写真=時事通信フォト
三浦義村を演じる俳優・山本耕史(=2019年5月30日ティファール新商品発表会。東京都渋谷区)

三浦義村が何よりも大事にしていたこと

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山本耕史演じる三浦義村に存在感があった。ドラマで印象的だったのは、北条義時の盟友として(血縁上も従兄弟だ)、ともに幕府を支えながら、あわよくば三浦が北条にとって代わろうとチャンスを狙っている姿だった。しかし無理はせず、まずは三浦一族が存続することを優先する。

むろん、ドラマだから、かなり脚色はされていた。が、そうした判断を、生き馬の目を抜くように素早く行う義村の姿を、ひとたび政敵と見なされるとたちまち滅ぼされる鎌倉における処世術の象徴として、浮き立たせたということだろう。

たとえば、第47回「ある朝敵、ある演説」(12月11日放送)では、後鳥羽上皇が有力御家人たち一人ひとりに下した「北条義時追討の院宣旨」を受けとると、同じく受けとっていた長沼宗政とともに、打倒北条のチャンス到来ととらえる。

ところが、義時らと同席する場で、院宣旨が話題になると、すかさず自分の元に届いていた旨を申し出て、さらには院宣旨の現物を差し出す。こうして、北条に対して二心がないことを強調するどころか、忠義の心が深いようにみずからを演出するのだ。

いちいち「打倒北条」の思いがよぎるところには、史料に照らすかぎり、脚色として過剰な感があるが、こうしてことあるごとに「忠義の心」を強調することで、三浦が鎌倉の地で、北条に次ぐ揺るぎない地位を確立したのはまちがいない。

だが、一方で、ひとたびボタンが掛け違うと、こうした血のにじむような努力の集積も、たった一夜にして水泡に帰してしまう。その後の三浦を思うと、なんだか胸が痛む思いすらするのである。

義村の最初の汚れ仕事

さかのぼれば、三浦義村は要所要所で北条を立て、助けてきた。それも、北条の存亡の危機というべき場面で、決定的に力を貸してきたと言っていい。とくに正治2年(1200)に父の義澄が亡くなってから、三浦の当主となった義村は、北条との距離を狭めている。

北条義時の父、時政が建仁3年(1203)、3代将軍源頼家の後継であった一幡の乳母夫、比企能員を謀殺した直後、比企一族が一幡の小御所に立てこもったときは、北条政子の命で小御所を襲撃している。

また、北条時政が娘婿、平賀朝雅の讒言ざんげんを受け入れ、頼朝以来の忠臣である畠山重忠と嫡男の重保を決めたときも、義村は時政の命令に従って、重保を由比ガ浜付近におびき出して討ち取っている。