「三浦を滅ぼさなければ」
以後、義村は泰時との関係性もうまく維持し、延応元年(1239)に亡くなるまで、執権に次ぐ一般御家人ナンバーワンの地位を維持する。
しかし、それから10年も経ずに、三浦一族は滅亡してしまう。
義村のあとを継いだ次男の泰村は、たびたび御家人との争いを起こしたり、北条との関係性の築き方について弟の光村と対立したりと、父のようにうまく立ち回る力に欠けていたようだ。
きっかけは、2歳で鎌倉に下向した4代将軍で、ドラマにも出てきた三寅、すなわち藤原頼経だった。頼経は4代執権の北条経時(泰時の孫)との関係が悪化し、将軍職を嫡男の頼嗣に譲ってからも大殿として鎌倉にとどまっていた。
その後、執権職が病気の経時から弟の時頼に譲られると、頼経とその側近らが5代執権時頼を除こうとした事件が起き、頼経は京に送還された。そして、三浦泰村らはこれへの関与を疑われたのだ。
三浦が糸を引いているとだれもが疑い、若い北条時頼は目をつぶったが、時頼の外祖父である安達景盛は「三浦を滅ぼさなければ、安達が滅ぼされる」と考えたようで、戦の準備を始めている。
そんな状況で宝治元年(1247)、三浦泰村は挙兵した。時頼とのあいだで何度も和平交渉が繰り広げられたが、泰村は三浦一族内の好戦派を抑えることができなかったのだ。
一族郎党は根絶やしに
結局、頼朝の墓所堂に追い込まれた泰村や、「好戦派」の弟、光村以下、三浦一族はことごとく討たれ、自害した人の数は300人から500人におよんだという。
危ない橋をうまく渡り続けた三浦一族だが、その橋にリスクがある以上、常に落ちる危険性をともなっていた、ということか。しかし、三浦一族の滅亡によって、北条の地位は盤石になった。結局、三浦は最後まで北条を助けたのである。