スチュアート朝断絶で予防策が求められる
それでも、女児2人が成長できそうに見えましたが、2歳の誕生日を迎える前にいずれも天然痘で死亡。唯一の男児ウィリアムは先天性の水頭症を患っており、11歳で病死しました。生まれてくる子がみな死んでいく。母親として、これほどつらいことはないでしょう。
アン女王はブランデーなしには生きられない酒浸りとなり、極度の肥満と痛風に苦しんで歩行不能になりました。彼女が脳卒中で亡くなったとき、立方体に近い棺桶を用意する必要があったという逸話があります。
アン女王の死によりスチュアート朝が断絶したため、遠縁のドイツ・ハノーヴァー公国から、ジョージ1世(1660〜1727年)がロンドンに迎えられ、ハノーヴァー朝が始まります(1714年)。54歳という当時としては高齢で即位したジョージ1世の家族をも天然痘が襲いました。スチュアート朝断絶の轍を踏まないためにも、予防策が絶対に必要でした。
人痘法を広めるきっかけをつくったモンタギュー婦人
このとき、1人の貴婦人がイスタンブールからロンドンに戻ります。
彼女の名は、メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689〜1762年)。ロンドン社交界の花形だった彼女は、弟を天然痘で亡くし、自身は一命を取り留めたものの、自慢の美貌が「あばた」で覆われてしまいました。
オスマン帝国駐在のイギリス大使に任命された夫に伴ってイスタンブールに赴いたとき、彼女はトルコ人たちの人痘療法が天然痘予防法として成果を挙げている、という話を聞きます。意を決したモンタギュー夫人は、1718年、自らの5歳の息子にまず人痘を受けさせ、成功しました。
その後、ロンドンに戻った彼女は親交のあった王太子妃キャロラインに働きかけ、イギリス医学界の重鎮が居並ぶなか、今度は自らの娘に人痘を受けさせました。キャロライン妃からこの話を聞いた国王ジョージ1世はおおいに興味を示し、囚人6人に釈放を条件として人痘を接種させ、安全性を確かめたうえで、孫娘の王女2人にも接種させました。王女様が受けたということで、このあとイギリス社会に人痘が広まっていくのです。
イギリスだけではなく、フランスでも、ブルボン朝の国王ルイ15世(1710〜1774年)が天然痘で亡くなったことから、人痘への関心が高まりました。もちろん、各国ともに根強い抵抗がありました。最大の懸念は、やはり安全性でした。