絶望はチャンス

志望した10社すべてから「お前のような女はいらない」と宣告を受けた今野さんは、絶望の淵に立たされた。周囲の凄まじい反対を押し切ってわざわざ東京の4年制大学に進学したというのに、どこにも就職できないとは……。

「その時は、なんてこと! って思いましたよ。だけど、自分の気持ちを偽ってまで就職をするべきなのか。そんな会社は自分の居場所ではないだろうと思ったら、ふっ切れたんです。よし、わかったと。この国に私を必要とする企業がないなら、私を必要とする企業を自分で作ればいい。自分の居場所がないなら、自分で居場所を作ろうじゃないかと」

撮影=市来朋久

今野さんは、10年後の1969年5月1日と日付まで決め、自ら起業することを心に固く誓った。

いま、講演を頼まれると、今野さんは「絶望はチャンスだ」という話をよくするという。その瞬間にはわからないけれど、壁にぶつかった時、実は大きなチャンスを与えられているのだと。

1社でも採用してくれる会社があったら、今の私はない

「現代は、自殺しちゃう人がたくさんいるけれど、大きな試練に見舞われたときこそ、ありがとうございますと感謝するべきなんだ。それを絶対に忘れちゃダメよと言っています。だって、受験した会社が私を徹底的に拒否し、締め出してくれなければ、あるいは、1社でも私をかわいい子だねなんて採用してくれていたら、いまの私はいなかった。そして、このダイヤル・サービスという会社はなかった。赤ちゃん110番、子ども110番がなかったら何百人という多くの命を救えなかったかもしれません」

就活全敗の後、今野さんは大学新聞の編集を通して知り合った『随筆サンケイ』の編集長の紹介で校正のアルバイトを始め、やがて自ら月刊誌に記事を書くようになった。その記事がTBSの目に留まってテレビ番組の制作からリポーターまでこなすようになり、夜はテレビの取材で出会った「灯」という歌声喫茶でアルバイトをした。ダブルワークならぬクアッドワークで糊口をしのいだ。

有名作家の三浦朱門、曽野綾子夫妻の元で口述筆記の仕事をしていた時、転機が訪れた。夫妻の勧めで、1964年にニューヨークで開催された世界博のコンパニオンに応募することになったのである。