6畳一間に6人で創業、軌道に乗ったのはつい最近

ニューヨークで女性が男性にして働く姿を目の当たりにし、その後の世界放浪を経て、今野さんが念願の起業に漕ぎつけたのは1969年のことだった。文字通り、6畳一間でスタートしたダイヤル・サービスの当初のメンバーは6人。机に座りきれず、今野さんは玄関脇の下駄箱の上に電話を置き、仕事をしたという。

創業当時の今野さん。6畳一間に6人のメンバーでスタート。
創業当時の今野さん。6畳一間に6人のメンバーでスタート。(写真=本人提供)

起業当初、ダイヤル・サービスは電話秘書サービスからスタートしている。アメリカで見たいわゆるコール・センターとは異なり、高度の専門性を備えたスタッフが電話を使った応対サービスを提供するスタイルは、当時もいまも変わらない。

「いつ事業が軌道に乗ったのかって? そんなの最近のことですよ。最初は毎月のお給与を支払うのに精一杯で、毎月25日病にかかってましたよ。毎月、25日が近づくと金策のためにあちらこちら駆けずり回るんだけど、大恩人のみなさんから、今野はもっと勉強しろ、ダイヤル・サービスは社長が一番勉強していないって、よく叱られました。でも、お金を集めるために勉強なんてしている暇はなかったんです。私の自慢は、お給料の遅配は一度もしなかったこと。だけど、そのためにずいぶん悪いことをしました。親の家まで叩き売ったりね。それは本当のことです」

「悪いこと」の詳細は、『ベンチャーに生きる』に包み隠さず書かれている。

電電公社という壁

1971年、ダイヤル・サービスは日本初の電話による育児相談「赤ちゃん110番」をスタートさせた。これがメディアで大きく取り上げられて、大ブレイクすることになる。折しも「コインロッカーベイビー」という言葉が流行語になり、高度経済成長の裏側で「育児放棄」や「子殺し」という前代未聞の事件が続発する世相だった。

全国から回線がパンクするほどの相談が殺到したが、ただ電話で相談を受けるだけでは、マネタイズすることができない。

スポンサーを探すこと、通話に課金できる仕組みを作り上げることが急務だったが、今野さんはここでも分厚い壁にぶち当たることになる。電電公社という壁である。