どこにでもいる中年男性から三冠王に一変

普段の野村は、どこからどう見ても、「元プロ野球選手」といった印象は受けなかった。あくまでも、チームメイトである「克則のお父さん」であり、いくら保護者たちが「あの野村さん」と興奮していても、少年の目から見ればどこにでもいる中年男性にしか見えなかった。しかし、バットを持つと、その姿は一変した。

現役時代、戦後初の三冠王となった片鱗を随所に感じた。

このとき、野村は52歳。45歳で現役を引退してから7年が経過していたが、その打棒は健在だった。この瞬間から、少年たちは一気に野村に心酔していく。

(この監督がいれば、僕たちも全国優勝できるのではないか……)

祐史はもちろん、チーム分裂騒動に揺れていた少年たちの胸に希望の光が宿った。このとき、親友である「克則のお父さん」「《野村スコープ》のおじさん」であった人物が、「僕たちの野村監督」へと変わった。

祐史は野村の自宅に行くのが楽しかった。ひたすらバットを振り続けることは辛かったけれど、「これを頑張れば、上手になれるんだ」という希望の方が勝っていた。

これまでも、克則の家に遊びに行くと、そこに数々の賞状やトロフィーが飾られているのを目にしていた。そのときは何も感じることはなかったけれど、あの河川敷での連続ホームランを目撃してからは、これらの記念アイテムを見る目も変わった。

(やっぱり、この監督についていけば僕たちは必ず勝てるんだ……)

バットを振る手に、さらに力がこもった。

野球少年を魅了した港東ムース

近所の遊び仲間たちはみな野球好きだった。

その影響もあって、東京・目黒区に住んでいた藤森則夫は小学校2年生の頃に隣接する世田谷の「リトルコンドル」という軟式野球チームに入団した。最初は内野手から始まって、次にキャッチャー、そして、6年生の頃にはピッチャーになった。

野球に魅せられていた藤森は、見るのもやるのも大好きだった。東京生まれ、東京育ちだったので、神宮球場を中心にヤクルトスワローズの試合をよく見ていたけれど、後楽園球場では読売ジャイアンツ戦も見ていたし、特定のチームのファンというよりは、とにかく野球自体が大好きな少年だった。

その後、身長はあまり伸びなかったけれど、6年生当時ですでに160センチとなっていた藤森は中学で本格的に野球に打ち込もうと考える。小学校の同級生が渋谷リトルに入っていた。ある日、彼から貴重な情報がもたらされた。

「新しくできた港東ムースというチームが練習会をやるんだって……」