関ヶ原の戦いに生かされた“ある戦法”
家康が、三方ヶ原の戦いで信玄から学んだことは、主に以下の3点です。
一つ目は、この合戦で信玄が採用した戦法です。
たとえば、合戦の際、最も疎かにしてはいけないのは、時間との勝負であるということ。圧倒的な兵力差がある場合、敵が籠城していたなら、それをじっくり力で攻めるのが一般的な戦のセオリーです。
しかし、三方ヶ原の戦いで信玄は、家康方に浜松城に籠城されては、城を落とすのに時間がかかり過ぎる、と考えました。その間に家康の同盟者・信長のさらなる援軍が到着して、城内の籠城軍と後詰めの織田軍とで挟み撃ちにされることも警戒したのです。
そこで浜松城内の徳川軍を、三方ヶ原におびき出してから叩く、という作戦を採りました。この時の信玄の作戦は、のちに、家康によって、関ヶ原の戦いに活かされることになります。
1600(慶長5)年9月15日の関ヶ原の戦いの時、石田三成をはじめとする西軍の主力は、美濃大垣城に本拠を構え、東軍との決戦に備えていました。
そこで家康は、大垣城の西軍主力をおびき出す作戦に出ます。
「大垣城を無視して、まず三成の居城である佐和山城を落とし、その勢いで大坂城を攻める」という東軍の偽情報を、西軍陣営に流したのです。
驚いた三成は、大垣城を迂回してくる東軍を、関ケ原で待ちかまえて迎え撃つという作戦に変更してしまいました。確かに関ヶ原の野戦での、地の利は三成にありましたが、長期戦を覚悟しなければならない大垣城攻めに比べ、関ヶ原での野戦は家康にとって、まだ戦いようがあったのです。
武田式に軍隊を作りかえたきっかけ
二つ目は、武田軍の編成方式や軍法を、具体的に家康は学んだということです。
のちに、信玄の後継者・勝頼の代で武田家が滅亡したおり、家康は武田家の旧臣、将兵たちを大量に採用しています。自軍を強化すると共に、かつて最強といわれた武田軍の軍団編成や軍法を、自軍に取り入れたいとの狙いがあったからです。
1585(天正13)年の11月、酒井忠次に続く有力な宿老だった石川数正が、秀吉方に出奔した際、これによって徳川軍の編成は、秀吉方に筒抜けになると判断した家康は、躊躇することなく、それまでの軍団編成や軍法を廃棄して、滅亡した武田軍のそれを採用しています。