薬の知識はオタクレベルだった

その後も、家康は諸大名の薬剤師の役割を果たし続けた。

たとえば細川忠興の慶長16年(1611)の書状には、家康から側近の本多正純を通じて、万病に効くという万病円まんびょうえんを拝領した話が書かれている。あるいは、同18年(1613)には本多正信が駿府から江戸に戻る際、家康から万病円を賜った話が『駿府記』(徳川家康の動静を中心とした日記)に書かれている。

同じ『駿府記』によれば慶長17年(1612)、家康は側近の大久保長安が中風だと聞き、侍医と相談のうえ、いまも使用されている有名な漢方薬、烏犀円うさいえんを提供したという。

このように相手の症状に応じてふさわしい薬を提供した、という逸話は枚挙にいとまがなく、静岡大学名誉教授の本多隆成氏は「家康の薬の知識や製剤・調合の技術は、もはや素人の域をはるかに超えるものであった」と述べる(『徳川家康の決断』)。

なぜ朱印船貿易に力を入れたのか

ところで、家康がみずから製剤した薬種のなかに、香木の一種の「沈香じんこう」という記述があり、これに強いこだわりを示していたフシがある。沈香は東南アジア原産の常緑高木で、日本には生えていない。

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家康が東南アジア各地との貿易に力を入れ、貿易を許可する朱印状を発行し、それを携えた貿易船が各地に派遣されたことは、よく知られている。が、そもそも家康は、なぜ朱印船貿易に力を入れたのだろうか。

家康が各国の国王などに送った書簡をみると、執着がなにに向けられていたかハッキリわかる。京都大学名誉教授の藤井譲治氏による『人物叢書 徳川家康』の記述をもとにたどってみたい。

慶長11年(1606)8月15日には「占城せんじょう(現ベトナム南部)国王」に書簡を送り、「貴国に懇求するところは域内の上品の奇楠香きゃらである、国中を探して我が国にもたらしてほしい」と求めている。「奇楠香」とは上質な沈香のことだ。

同年9月19日には、「柬埔寨(カンボジア)国王」に書簡を送り、「貴国に懇求するのは上々品の奇楠香である」として、金屏風5双を贈った。また、21日には「暹羅シャム(現タイ)国王」に、上々の奇楠香を送るように依頼し、鎧や長刀などを贈っている。

12月7日には、インドシナ半島にあったという「田弾たたん国主」に書簡を送り、「田弾の香財が最も上品であることを聞いたので、国中を尋ね探し、極品の奇楠香を送ってくれるように」と懇請。慶長12年(1607)10月には、あらためて占城に奇楠香を要求した。