晩年の家康が死ぬまで行っていた“ある運動”
3年余りにおよんだコロナ禍においては、外出を控えたりした人は、高齢であればあるほど、足腰および頭や心が衰えてしまったケースが多い。
だが、徳川家康なら、たとえ今回のコロナ禍に居合わせても自分の健康を守りとおし、そのうえ他者に対しても、健康に関してよい影響をあたえ続けたに違いない。
というのも、家康は全方位にわたる健康オタクで、自分自身が学者並みの知識を蓄え、考えて行動していたからである。
もっともわかりやすい例が鷹狩りだ。
家康が晩年を過ごした駿府城(静岡県静岡市)の本丸跡には、家康の銅像が立ち、その左腕には鷹が止まっている。私は中学生のころにそこを訪れ、なぜ鷹と一緒なのかと怪訝に思った記憶があるが、この像の表現は正しい。事実、家康は若いころから最晩年まで少しも衰えることなく、鷹狩りに情熱を注ぎ続けた。
たとえば元和元年(1615)。5月に大坂夏の陣を終え、駿府城に帰ってきたのが8月23日で、その後、翌元和2年4月17日に病没するまで、実質的には同年1月までの5カ月間に、16回も鷹狩りに興じているのだ。
なぜ鷹狩りに興じていたのか
いま「興じている」と書いたが、額面どおりの意味ではない。もちろん、家康は鷹狩りが大好きで、大いに楽しんでいたはずだが、楽しむこと以外にもさまざまな意味を見いだしていた。
無二の権力者とはいえ、各地に鷹場がもうけられ、鷹場奉行がその維持および管理をするという大げさな体制を敷いている以上、たんに娯楽のためというだけでは済まない。
娯楽以外の目的だが、領内の状況や領民の暮らしぶりを把握して統治に役立てる、というのがひとつ。野山を駆けまわることで身体が頑健になり、健康を維持、増進できる、というのがひとつである。
合戦に備えた軍事訓練を兼ねる、という目的もあったが、これは家臣の健康のためだと言い換えることもできるだろう。実際、家康の逸話をまとめた『東照宮御実紀附録』には「さまざまに労動して進退を堅固にするなれ。……家人もまた奔走駈駆するによりて歩行達者になり物の用に立なり」と書かれている。
おのずと大規模になる鹿狩りなどにくらべると、おもに鳥類を捕獲する鷹狩りには、手軽に健康増進を図れるという利点もあったようだ。