「釈然としない」小坂多喜子の回想
小坂多喜子の回想『小林多喜二と私』(「文藝復興」1973年4月号)には、無残な姿で母親の家に戻ってきた多喜二の通夜の席で、遺体をなでさすり、髪や頰や拷問のあとなどに頰を押し付ける若い女性の姿に驚く様子が描かれる。
小坂多喜子はその異様なふるまいに「かえってこの女性の受けた衝撃の深さを物語っているように私には思われた」と思いなおしてはいるものの、やはり一般論として、当時のハウスキーパアなる存在に一種の嫌厭の情を表明せずにはいられなかった。
「私は当時云われていたハウス・キーパーという言葉に一種の抵抗を感じていた。誰がそういう言葉をいいはじめたのかしらないが、いやな言葉だと思っている。地下運動をする男性の、世間の眼をごまかすための同棲者、実質的には妻同様の役目をする。イデオロギーの便宜のための、そういう女性の役目に私は釈然としないものを感じるのだ。女としての立場から納得のいかないものを」(前掲『「リンチ共産党事件」の思い出』)
平野は、戦後まもなく起きた「政治と文学」論争の際に書いた次の文章を本書でも引いている。「目的のために手段をえらばぬ人間蔑視が……運動の名において平然と肯定されている(『政治と文学』《新潮》昭和二十一年十月号)」。これに対し、宮本顕治は「新しい政治と文学」と題された論文の一節で、「日本共産党はハウスキーパー制度というものをかつて採用したことはなかった」と反論したという。