いつ「ぼた餅」が落ちてくるかは予測できない

ビジネス書の中には、運も実力のうちだとか、運は引き寄せるものだとか、運命の女神はこういう人に微笑むといったことが書いてあるものもあります。それを励ましとして受け取るのはいいのですが、その通りにすれば運がよくなると思って読むのだとしたら、読むこと自体が時間の無駄です。本気でそんなことを信じる人は、ダーウィンの進化論をまったく理解していないのではないでしょうか。

人間は、いつぼた餅が落ちてくるかを予測できないのです。ただし確率論で考えたら、人生のうち何回かは落ちてくるときに居合わせます。運がいい人だけが居合わせられるのではなく、単に確率の問題です。

確率の高い人と低い人がいるのではないか。それを運と呼ぶのではないか。そう考える人もいるかもしれませんね。これはダーウィンのいう「適応」で説明がつきます。棚からぼた餅が落ちてくるときに運よく居合わせたとしましょう。だけど近くにいるのは1人ではないのです。5人、10人いるかもしれません。大勢の人たちがいる中で、いち早く走っていって、ぼた餅の真下で大きく口を開けた人だけがぼた餅を食べられます。これが適応です。少しわかりにくいでしょうか。

運と適応しかないとわかれば、人間は謙虚になる

つまりこういうことです。自分の近くにぼた餅が落ちてきたとしても気がつかないことがあります。周囲をしっかりと観察していなかったら気づくことはできませんから。じっと前だけを見ていたら後ろに落ちてくるぼた餅に気がつきませんし、キョロキョロしていると見逃がします。ここに落ちてくるはずだ、と自分の考えに固執する人も見落とす可能性が高い。たとえ気がついたとしても、そのとき二日酔いだったら身体が動きません。こういう人たちは適応していないのです。だからその場に居合わせたとしてもぼた餅を口にすることはできません。

出口治明『ぼくは古典を読み続ける 珠玉の5冊を堪能する』(光文社)

つまり運の良し悪しではないんです。

いつ何が起こるかわからないとしたら、素直な気持ちで広い視野を持つこと。さらにいつ何が起きてもなんとかできるように、自分の体調管理をしっかりすることがぼた餅を手にする最低条件になります。ぼくはずっとそういうふうに思い続けてきました。

それともうひとつ。運と適応しかないとわかれば、謙虚になります。何が起こるか人間にはわからない。運命は変えられるとか、運を左右できるという考え方は、考えようによってはものすごく傲慢ごうまんなんです。人間の能力を過大評価し過ぎています。人間の力なんて大したことはないのです。

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