最新の研究でわかった「寝返った理由」
いったいなぜ、よりによって「敵」だった秀吉のもとに寝返ったのか。その理由を明記した史料はないが、研究者の見解はほぼ一致している。秀吉に対する強硬派が多かった家康の家臣団のなかで、融和派の数正が孤立してしまったのだ。
外交交渉で実績がある数正は、天正11年(1583)年、柴田勝家が滅んだ賤ケ岳合戦の戦勝祝いに、はじめて秀吉のもとに遣わされて以来、たびたび秀吉への使いを務めていた。
小牧・長久手合戦後の講和交渉を担当したのも数正で、その間、秀吉は大坂城を築き、朝廷から次々と高い位階を叙任され、急速に力を拡大していた。
しかも、小牧・長久手合戦後は、それまで織田・家康連合軍と通じていた勢力が、四国の長宗我部氏をはじめ、次々と秀吉に屈服。そんな情勢を目の当たりにしていた数正は、秀吉との講和を進めないかぎり徳川の未来はないと判断し、そう主張した。
ところが、酒井忠次にせよ、本多忠勝にせよ、家臣の多くは秀吉に屈するなどとんでもないという意見だった。
そして決定的だったのが、家康の家臣・松平家忠による『家忠日記』に記述がある、天正13年(1585)10月28日の「浜松城会議」だったようだ。
「浜松城会議」で起こったこと
それまで家康は、小牧・長久手合戦後に和睦する際、秀吉に人質こそ送ったものの、上洛することも、秀吉に臣従することも拒んでいた。そんな家康に対し、秀吉はまさに数正を通して、あらたに重臣の子弟らを人質に出すことを求めてきた。
そこで家康は、10月28日に家臣たちを浜松城に集め、人質を送るかどうかについて話し合ったが、強硬論が圧倒的で、人質は出さないことに決まった。京都大学名誉教授の藤井譲治氏は「おそらく石川数正は人質を秀吉に出すべきとの意見を持っていたのであろう」(『人物叢書 徳川家康』)と記すが、そうであれば、数正が立場を失ったことは想像にかたくない。
さらに、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は「一本気で頑固な他の家康家臣たちが、数正を“秀吉のまわし者”と見はじめたのである。徳川家のためによかれと思って動きながら、同僚からそのように見られることほどつらいことはないであろう」(『徳川家康 知られざる実像』)と記す。
一方、「秀吉は、一つには数正の力量を評価し、同時にもう一つの側面としては、鉄壁とみえる徳川家臣団に亀裂を生じさせるために、数正の懐柔に乗り出したと考えられる」と小和田氏。静岡大学名誉教授の本多隆成氏も「おそらくは秀吉からの事前の誘いもあって」(『徳川家康の決断』)と見る。