選手と観客では「目線」が違う
最後に指摘するのは「視線の違い」である。
観客は試合が行われているピッチをやや斜め上から眺めている。そこからだと、ディフェンスの陣形や空いているスペースが、まるでTVゲームをしているときのようによく見える。つまり観客は俯瞰的なまなざしで試合を観ている。
だがピッチに立つ選手は違う。同レベルの地平にいるから、近くは見えるが遠くは見えにくい。たとえばラグビーなら、相手選手の接近を警戒しながら、フォローしてくれる味方のポジショニングを意識しつつ、攻めるべき有効なスペースを探している。このスペースは視覚では捉えられないことが多く、五感を総動員しつつ想像力を駆使した予測に基づいて把握する。重圧に押されて緊張すれば五感が十分に働かず、予測が狂って判断を間違うこともある。
いわばピッチ上の選手はカオスの只中に放り出されている。知覚や経験則に物を言わせなければ対処できない混沌の最中にいる。この視点の違いもまた観客と選手の分断を生む一因となっている。試合のとある場面について自分がまるで監督のように語れるのは、あくまでも観客目線でよく見えていたからでしかない。もし自分がピッチに立ったのなら何一つプレーできないにもかかわらず上から目線で揚げ足を取ることができるのは、文字通りに見下げる位置にいるからである。
実際の選手はコントローラーでゲームのように動かせない
試合後に居酒屋のカウンターなどであれこれ語り合うのをとがめるつもりは、もちろんない。それもまたスポーツ観戦がもたらす面白さだからである。ただ、この視点の違いに思いをはせることだけは忘れないでいたい。手元のコントローラーで操るかのように都合よく選手は動かせないのだ。
なぜ、あの場面で判断を誤ったのか、チャンスをつかみきれなかったのかなどについて、選手目線に立ってその臨場感を想像する。味方とのコミュニケーションが思うようにとれていないのかもしれない。マッチアップする相手の重圧に押されているのかもしれない。W杯の雰囲気に飲まれてしまったのかもしれない。
選手は私たちの欲望を満たすマスコットではなく、ひとりの人間である。だから迷いもすれば間違うこともある。揺れ動く心と必死に折り合いをつけようとするその懸命な姿勢に、私たちは感動を覚えるはずではなかっただろうか。
「する」側と「観る」側のリスペクトがあってこそのスポーツ
スポーツには応援がつきものである。選手なきスポーツはありえないし、観客なきスポーツもまたそうだ。いまだ続くコロナ禍において無観客試合がどれだけ空虚であったかを思い出せば、それがわかる。選手と観客が良好な関係を築いた先に健全なスポーツが立ち上がる。「する」と「観る」を架橋する身体的興奮に流されないよう互いに節度を保ち、リスペストする姿勢がそこには不可欠である。
とりわけSNS全盛の今は言葉のやりとりにおいてそれらが必要だ。個々人がメディアになりうることを自覚し、自らの言動が個人や社会に影響を及ぼす蓋然性を想像しなければならない。
スポーツが文化たりうるためには、選手と観客がともにこの社会を生きているという連帯感を持つことである。「する」と「観る」の違いはあってもともにスポーツの担い手であること、そしてそのスポーツは社会に依っているという紛れもない現実を直視する。そうしてはじめてスポーツは、私たちの暮らしを彩る文化になりうると私は思う。