SNSからの声は不可避

たとえ周囲にファンがいたとしても、直接声をかけられなければその存在は意識に上らない。だから、こちらが気にしなければいいだけだ。大学を卒業して日本代表になり、31歳まで現役を続けるうちに、いつしかその術が身についた。心のなかで一線を引き、直接的にかけられた言葉以外は気にせずにおけばいい。自らの心と折り合いをつける振る舞い方を覚えたわけである。

だがSNSは、周囲からの声を文字化し、可視化する。気にせずにおこうとも、自身のアカウントめがけて匿名アカウントからさまざまな言葉が届く。読まなければいいだけかもしれないが、炎上した事実そのものがニュースとして話題になる以上、それは現実的に困難である。どれだけ心の中に線を引こうが、投げかけられた言葉は否が応でも本人の目に入ることになる。

ファンと比べてアスリートの立場は弱い

ともすればアスリートを縛りつけるこのまなざしは、現実空間だけでなく仮想空間からも注がれる。その仮想空間からのまなざしは時と場所を問わない。だから自宅でくつろいでいるときでさえも容赦なくつきまとう。私が現役だった時代とは異なり、いまのアスリートを取り巻く「世間の目」は睡眠時を除く生活の隅々にまでぎっしり張り巡らされている。その不自由さは想像するだけで息が詰まる。しかもそれが憎悪の念がともなう誹謗中傷ともなれば察するに余りある。

ファンと非対称な関係にあるアスリートの立場は相対的に弱い。真のファンならばこの点を忘れてはならない。そのうえで応援の仕方や言葉がけに節度を保つのが取るべき態度であるはずだ。