「厳しい批判こそ選手のためになる」という勘違い
もう一つ指摘しておきたいのは、スポーツファンのあいだでまことしやかに流布している「厳しい批判こそ選手やチームのためになる」という風説への信憑性である。
敗戦を喫した選手やチームを甘やかしていけない。ファンの厳しい視線が注がれてこそ強くなる――。
そう信じこんでいる人は多い。
これについて、元アスリートの立場からすれば概ね異論はない。「負けてもよくやった」という態度が生ぬるいのは確かだ。批判にさらされてこそ発奮できるし、それが実力強化につながる面はある。
ただし、これは「適切な批判」に限ればの話であって、大多数の人がその意味を履き違えている。
そもそも批判とは、物事の真偽や可否を検討し、判定や評価を下すことである。そこに冷静さや客観性がともなうのはもとより、同じ失敗を繰り返さないためにという未来志向のニュアンスがある。その意味で極めて建設的な営みであり、スポーツに限らず日常生活から政治に至るまでどんな問題を考えるときにも不可欠である。これと似た言葉に「非難」があるが、これには欠点や過ちを指摘して責め立てるという意味がある。
非難はファンの鬱憤を晴らすための「自慰行為」でしかない
つまり、特定の選手の過ちをことさらに取り上げるのは批判ではなく、非難である。ましてやその責任を押し付けて戦犯にまで仕立て上げるのは、さらにひどい誹謗中傷だ。個々の過失を責めてもなにも得るものはなく、ここにはどれほどの未来も志向されていない。
ミスをした選手は例外なく自責の念に駆られており、わざわざファンが指摘せずとも本人は十分に理解している。にもかかわらず、まるで傷口に塩を塗り込むかのように執拗に追い込んだところで何が得られるだろう。それは批判ではないし、必要不可欠な厳しさでもない。いうなれば観ている側の不満解消でしかなく、モヤモヤとする気持ちを晴らす目的で為される自慰行動と構造的に同じである。
もし本当に選手やチームのことを考えているのならば、非難ではなく批判をしなければならない。否応なく高揚する感情を落ち着かせつつ言葉を選ぶ、冷静で自制的な態度からしか適切な批判は生まれない。