アスリートとファンの関係性は非対称
当然のことだが、アスリートは試合での勝利およびハイパフォーマンスの発揮を目指す。ファンからの声援を味方につけ、さらには野次にも恐る恐る耳を傾けながら自らを鼓舞し、それを果たそうとする。だから、自分あるいは自分たちのチームがファンの目にどのように映るのかがたえず気に掛かる。おおよそのアスリートは、ファンの期待に応えることこそが使命だと自覚しているはずだ。
かようにアスリートとファンのあいだには切っても切れない関係がある。
だが、その関係は非対称である。
顔と名前を公に晒しているアスリートは、たとえば街を歩いているときに不意に声をかけられたり、居酒屋で飲んでるときに隣にいたお客さんからサインを求められたりもする。こちらは知らないけれどあちらは知っている。程度の差はあれど、いつのときもアスリートはそういう心構えで日々を過ごしている。
私がファンとの非対称な関係を自覚したのは大学生のときだった。休日に京都の街中を歩いていたら、50代と思しき男性から肩を叩かれ、「今週の試合、がんばれよ!」と声をかけられた。ファンから直接的に声援を受けたのだから、もちろん、うれしかった。名前と顔を憶えてくれていることに充実感も覚えた。人生のステージがひとつ上がったような気がして、誇らしくもあった。
常に「誰かに見られているかも」という緊張
ただ、それと同時に、いつどこで誰に見られているのかわからないという不気味さも芽生えた。ショッピング中も、恋人とデートしているときや友人たちと飲み会を開いているときにも、もしかすると周囲には自分を知る者が潜んでいるかもしれない。たえず誰かに見張られているのだとすれば、それは窮屈でしかない。見られる立場に自分が立ったことへの自覚から、えもいわれぬ不安に駆られたのである。
社会に名が知られたアスリートは、その素性がわからないファンたちの存在をたえず意識し続ける私生活を余儀なくされる。有名人に特有なこのプライベートの制限は思いのほか心身にこたえるものだ。不特定多数で構成され、その実態がうまくつかめない「世間」に対して、いついかなるときも「よき人物」を演じなければならないのは相当な負担である。もし不覚にも泥酔して道端に寝てしまったなら、場合によっては新聞沙汰にもなりかねない。
つまり周囲にたえず気を配らざるを得ないアスリートは、もしかすると自分のことを知る誰かに見られているかもしれないという「世間の目」に、ずっと追われている。
厄介なことにSNSはこれを助長する。