書籍化が却下され平身低頭する編集者

書籍編集部の担当者も絶賛してくれたのだが、しばらくしたらその担当者は、「企画会議に通らなかった」と僕に報告してきた。本にはできないということだ。『棺桶』部分以外は書き下ろしだから、原稿料すらもらっていない。これで本にしてもらえず、印税も手にすることができなかったら、この数カ月の間の僕の労力はどうなってしまうのか。

自分に非があるとは思えなかった。僕は編集者たちから、「『ラス・マンチャス通信』路線の作品を書いてほしい」と言われ(そういうスペックの製品の発注を受け)、指示されたスペックどおりに、しかも約束した期日までに製品を仕上げて、納入しただけだ。その段階で書籍化を拒まれるというのは、「注文どおりに仕上がってはいるものの、この製品はわが社では売り物にならないから、買い取ることはできない」と製品を突きかえされたも同じではないか。そんな理不尽な話があっていいものだろうか――。

もちろん、担当も平身低頭していた。会議の場でも、(朝日新聞出版の担当と同様)がんばってくれたらしく、1カ月の猶予をもらって、その間に、この本を刊行することのメリットとみなせるデータを集め、翌月の会議にもう一度諮ってみるという話だった。

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「いい作品か」ではなく「売れる作品か」

そんなデータを、どれだけ集められたのかはわからない。たぶん、説得力のあるデータなどないに等しかっただろう。それ以前に、この作品の刊行にNOを突きつけた角川の役員や営業サイドの人々は、これは断言してもいいが、誰一人として、僕の原稿になど目を通していなかったと思う。

問題なのは、それがいい作品かどうかではない、「売れる作品」かどうか、ただそれだけなのだ。彼らは、基本的に数字しか見ていない。「平山瑞穂という作家が過去に出した本はどれも売れていないから、うちで出してもまず売れないだろう。そんなリスクをわざわざ背負う必要はない」――それが彼らのロジックのすべてなのだ。

それを一概に責めるつもりはない。僕はサラリーマン生活も長かったので、彼らがそういうロジックを駆使する理由も理解できるし、自分も同じ立場なら同じ判断を下すのではないかと思う。だが、現場ですでに発注がなされ、注文どおりに仕上げられ、納期も守った上で納入された製品について買い取りを拒否するのは、商慣行として絶対におかしいということだけは言える。