2人にとって江戸がベストだった
さらに見逃せないのが、小田原征伐の家康の陣中に天海がいたことである。寺社の沿革をまとめた『御府内備考続編』にはこんなエピソードが記されている。
天正18年4月初旬の事、家康の陣中にいた天海が、小田原に浅草寺の別当を呼び寄せ、家康に「江戸城の鬼門に位置し、源氏と所縁深い(源義家や源頼朝も祈願に訪れた)浅草寺を徳川家の江戸の祈願所にするように」と進言した、というのだ。
つまり小田原征伐が本格的に始まる4月初旬の時点で、家康は天海の助言を得て、水面下ですでに江戸入りの準備を始めていた。
天海といえば徳川将軍家に仕えて方位学を駆使した江戸の都市づくりの中核を担った人物。その天海が小田原征伐の陣中にいたのなら、家康に、江戸城が四神相応に叶い、方位学的にも幕府を開くのに……イヤイヤ、本城を置くのにふさわしい場所であるというお墨付きを与えた可能性は高いだろう。
こうして家康は、自身の関東支配の拠点を江戸にする意思を固めた。
秀吉による家康の江戸入り命令が、このような家康の意思を反映したものなのか、それとも偶然なのかはわからない。
とにもかくにも、秀吉、家康、お互いの思惑の落としどころとして、江戸がベストだったということは確かである。
小田原城が落城すると、家康は秀吉の指定通りに速やかに江戸城に入り、8月、9月のわずか2カ月で旧領から関東への領地替えを完了した。そのあまりのスムーズさは「速なるにも限あることなれ(速いにもほどがあるだろ!)」と秀吉を驚かせたほどだった。