難波京が維持できなかった理由

神崎川は現在は摂津市から大阪湾を結んでいる淀川水系の21キロメートルの一級河川である。延暦4年(785年)4月、時の摂津職和気清麻呂が淀川治水のため掘削を行ない、現在の神崎川の一部となった。古代において川に手を加えればすぐに「治水のためにつくられた」という説が出てくるが、これは治水の工事ではない。運河の工事である。784年に平城京から遷都された長岡京への物流路を確保するための工事である。詳しく当時の淀川河口の姿を見てみよう。

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この時代から100年前に、時計の針を戻してみる。当時の大和朝廷では大阪湾口に港をつくるか否かをめぐる大きな政争が起きていた。蘇我氏が日本海交易と大和川水系の交易路を独占していた時代である。大和朝廷はどうしても瀬戸内海に進出したかった。乙巳の変(645年)で蘇我氏を倒したあと、朝廷はすぐに上町台地、現在の大阪城付近に都をつくり始めた。前期難波宮である。686年に焼失してしまったが、その後も難波京に挑戦した。

私は、もともと大阪で、港を備えた都を機能させることは当時の技術では難しかったとみている。

潮の流れや軟弱地盤で港が崩れる

大阪城のすぐ南西にある法円坂遺跡は、6世紀頃まで機能し、巨大な港湾施設があった。

やがて、大和川の土砂が淀川本流に迫り、上町台地の先端部に迫るようになった。難波の堀江、難波津などの工事が行なわれたとされているが、押し出される土砂で圧迫された河口部で波が荒れ、この港の機能維持が難しくなった。

激しい潮の流れだけでなく、軟弱地盤にも阻まれた。この大阪の軟弱地盤で杭を打って新しい岸壁や物揚げ場づくりに挑戦しても、その後もすぐに埋まってしまう。潮位差が2メートルほどあり、水が引くと残った水圧によりつくった施設はすぐに崩れた。やがて、港ができない都は放棄された。

繰り返しになるが、当時の技術では、大阪の築港は不可能であった。明治になってからも淀川改修、大阪港の整備はかなり難工事であった。大阪城ができてどうして港ができない。そんな疑問が出る。それは、地盤が違うからだ。台地上のしっかりした地盤で建てられるものと、軟弱な水際でつくるものは違う。結局、難波京もあきらめて、淀川筋を京都盆地まで上がって、京都盆地に都をつくることを選んだのである。

上町台地先端の波の荒い河口部に近づかないで、なんとか淀川を上るために、副水路(専門用語では側方運河という)として新しい水路を掘って淀川右岸を上ることとした。現在の神崎川の一部である。