深夜に汚水で溢れかえったトイレ

深夜2時、私は仮眠から起こされた。事務室のドアを叩く音がする。開けるとヒガシさんが薄暗い廊下に立っていた。ヒガシさんこと東田壮太さんは155センチほどの小柄でぽっちゃりした体型で、性格は穏やかでやさしい。知的障害があり、支援区分は「3」(*9)だった。

「どうした?」
「溢れてるよ」

そう言ってトイレを指さす。リビングのトイレは車椅子のままで入れる広いサイズとふつうのものと2つあり、ふつうのほうだ。電気を点けて見てみると、便器は満々と汚水をたたえ、一部は溢れて床を汚していた。

「トイレに起きて気づいたの?」
「うん、ミッキーさんが行ったり来たりしていて、うるさかったので目が覚めた」
「そうか、ありがとうね。あとは私がやっておくから、もう寝ていいよ」

ヒガシさんの背中をポンと叩きながら余裕を見せて言ったが、あの汚水をどうにかしなければならないと思うと、気が滅入った。まずシャツとズボンを脱いで(*10)下着だけになった。飛沫ひまつを浴びてもこれならシャワーを浴びれば済む。スッポンと呼ばれているラバーカップで排水口の吸い出しをするのだが、このまま突っ込めば、汚水がさらに溢れてしまう。

そこでバケツで便器の汚水をすくい取り、大きいトイレの便器に流す。トイレがもう一つあって助かった。便器の汚水が半分になったところで、ラバーカップを排水口に押し付けて真空にし、グイっと引っ張る。だが効果なし。繰り返すけれども反応がない。こうなったら直接、詰まり物を取り除くほかはない。

(*9)支援区分は「3」行政からの給付金はこの支援区分に応じてホームに支払われる(本来、介護給付費等は市町村から利用者に支給され、事業者に支払いをするものだが、「法定代理受領」という仕組みを利用し、利用者に代わって事業者が市町村から直接受領する)。この区分は年に一度、ホームからの申告に基づいて、行政によって再審査されて認定される。
(*10)「ホームももとせ」にはユニフォームはなく、動きやすい格好であればどんな服装でもよく、みな私服だった。当然、着替えも用意しておらず、汚れてしまえば、そのままの格好で退勤まで勤めなければならない。

排水口に詰まっていたのは…

意を決して腕を突っ込むと、肘まで浸かったところで大きなかたまりに手が触れた。

木や金属ではなく、硬いけれども表面に弾力がある。爪を立てて掴み、やっとの思いで引っ張り出す。溶けかかった冷凍肉の塊だった。よく見るとかじった跡が見える。信じられない物体にため息が出ると同時に、ミッキーさんの顔が浮かんだ。きっと彼の仕業だろう。

キッチンの三角コーナーには二、三口かじったタマネギが捨ててあった。そのそばにふだんから2本用意してある1.5リットル入りの麦茶の容器が2つとも空になって置かれていた。タマネギをナマでかじり、辛くて麦茶をがぶ飲みしたのだろう。

ミッキーさんの様子を探りに玄関を出て外にまわった。彼はカーテンを閉めるのをなぜか嫌がるので、窓側から室内の様子が見られる。ベッドの上の盛り上がりが規則正しく上下しているから安眠しているようだ。無茶苦茶やって、興奮が収まったのかもしれない。ミッキーさんは大量の薬を飲むのでその副作用(*11)のためか、寝てしまうと異常なくらい深く眠る。そして失禁が多い。180センチ、80キロもあるから失禁も大量だ。

一応、ゴムの防水シーツは敷布の上に敷いてあるのだが、失敗するとベッド全体がぐっしょり濡れる。翌日が曇りや雨だと、職員は泣きの涙である。

(*11)副作用ミッキーさんのほかに、飲んでいる薬による副作用が見られる利用者はいなかった。ミッキーさんだけは副作用が顕著に現れるので、職員会議でもその情報が共有され、対策などが話し合われていた。

空腹に耐えかねて食事をしているわけでもない

彼は空腹に耐えかねてこんなことをするのではない。夕食は食べすぎるほど食べている。ごはんのお代わりは1回だけという決まりを作っても、職員の目を盗んで3杯目を食べてしまう。

松本孝夫『障害者支援員もやもや日記』(三五館シンシャ)

利用者のために、麦茶を入れた大型容器2本を冷蔵庫に用意しておくのだが、ミッキーさんがしょっちゅう飲むのですぐなくなる。コンビニで買ってきた500ミリリットルのコーラを一気飲み(*12)して、盛大なゲップをする。職員たちは「きっと薬の飲みすぎの副作用で喉が渇くのね」と言っていた。

彼はまた頻繁に手を洗う癖があり、そのたびに水道の水もがぶ飲みする。ある日、ミッキーさんは廊下を歩いていて突然、どばあっ! と水を吐いた。私はちょうどその瞬間を目撃した。胃の中にこんなにも大量に水が入るものかと思えるほどの大量の水だった。すぐさまモップを持ってきて、廊下の拭き掃除に取りかかる。廊下一面にぶちまけられたのは、食べ物の含まれない、じつにきれいな水だった。

(*12)あるとき、ミッキーさんはコンビニの前にたむろしている“ヤンキー”から面白半分でコーラの一気飲みをさせられた。店の前で、言われるがままに平然とした顔で一気飲みし、大きなゲップをしたという。コンビニ店員さんが教えてくれた。

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