秋元市長が焦ったワケ
「新線ルートから外れたら、また流山はおいてけぼりになってしまう」
秋元は焦った。
「また」というのは1896年に開通した土浦線のことを指す。海路を使っていた常磐炭鉱の石炭を陸路で運ぶために茨城県の土浦と東京の田端を結んだこの線ができる時、江戸川を使って味醂や醤油を東京に運ぶ水運の要として栄えていた流山では、住民が鉄道の建設に反対した。
用地買収に困っていた政府に「良ければうちのサツマイモ畑を提供しましょう」と申し出たのが柏の地主である。こうして我孫子、柏、松戸を通る常磐線のルートが決まり、物流の主流が水運から陸運に変わる中、流山はヘソのない「陸の孤島」となった。
毎週の霞ヶ関・永田町詣で
同じ失敗を繰り返してはならない。
だが1983年の9月、市長に当選した喜びに浸る間も無く、衝撃の事実が秋元の元にもたらされる。千葉県がまとめた常磐新線の「建設が望ましい6ルート案」の中に流山市がほとんど入っていなかったのだ。
6ルートのうち5ルートは柏駅を北に少し迂回する形で我孫子と松戸を結んでおり、流山には掠りもしない。1ルートだけが流山の南端を掠める形になっていたが、これでは新線は「街のヘソ」にはなり得ない。
その日から秋元は毎週のように霞ヶ関・永田町詣でを始めた。
「え、流山。どこだそれ」
「ああ、流れ流れて流山。タヌキしかいねえんだろ」
官僚も政治家も、最初は誰も相手にしてくれない。
気の短いことで有名だった自民党の政務調査会長に陳情しに行くと、怒鳴られた。
「何、鉄道だと? ダメだダメだ。鉄道なんて赤字にしかならん」
「流山市民の悲願です。どうかご一考ください」
「なんだと。ダメだと言っとるのに、まだ分からんか!」
俳人でもある秋元は洒脱な言葉のやり取りを得意とするが、喧嘩は好まない。しかし自分の後ろには10万人の流山市民がいる。そう思うと、不思議と力が湧いた。
「話もろくに聞かずにダメはないでしょう。先生は常磐線が『殺人電車』と呼ばれているのをご存知ですか。乗車率170%。日本で一番の通勤地獄です。電車ってのは四角い箱だが、朝の常磐線は膨らんで丸くなってる。自由民主党ってのは、平気で国民をそんな殺人電車に乗せるんですか!」
秋元が啖呵を切り終わると、政調会長は目を丸くしてこちらを見ていた。