死の間際に「ことの外御うつくしく」

しかしながらお市の方は、やはり当時から「美人」と認識されていたことがうかがわれる。それを示すのが「渓心院文」(国立公文書館内閣文庫所蔵)になる。

北庄城址(柴田神社)に展示されている北庄城の復元模型(写真=立花左近/CC BY-SA 3.0/Wikipedia

賤ヶ岳合戦で勝家軍に勝利した秀吉軍は、勝家の本拠の北庄城を攻め囲んだ。勝家はお市の方に北庄城から退去することを勧めたが、お市の方は勝家とともに自害することを決意し、長女・茶々、次女・初、三女・江を秀吉に託すことにした。

この北庄城で三人の娘を秀吉に引き渡すにあたって、お市の方が「三の間」まで出てきた際のこととして、「ことの外御うつくしく御とし頃より御若かに御廿二、三にもみえさせられ候」と記している。

この認識はおそらく、三人の娘に供奉した侍女らによるものであったと思われる。ここに「とても美しい」とあることから、お市の方が当時において「美人」と認識されていたことは確かとみてよいであろう。

そしてその「美人」とは、年齢が若くみえ、二十二、三歳のようだった、というから、実際の年齢よりも若く見えたのがその理由であった。

「美人」と認識されていたことは間違いない

とはいえ、この年齢よりも若く見える、というのが具体的に何を指してのことかはわからない。お市の方はこの時、三十四歳くらいと推定される。そうすると実際の年齢よりも、十一、二歳若く見えた、というのであるから、およそ一回りほど若く見えた、ということになる。ではそれはどのようなことを想定できるであろうか。

お市の方が「三の間」に出てきたのは、おそらく深夜のことであったろう。いうまでもなくかがり火など以外の明かりはなかったし、お市の方もまた化粧を施していたことであろう。そうしたなかで若さを認識できるとすれば、髪の毛の色艶や肌の張りくらいのように思われる。

実際にどうであったのかはわからない。しかしお市の方が、当時から「美人」と認識されていたことは間違いないといえるであろう。しかしそれが、「天下一の美人」と認識されていたのかどうかといえば、わからないとしかいいようがない。それを記す「祖父物語」は、少なくともそれから一〇〇年ほど後の成立になるからである。