「なじみの女」がいない勝家に軍配

そこには、

信長公御妹浅井後家さま(お市の方)を、(羽柴)筑前秀吉御えんぺんののぞみ、柴田しゅり殿(勝家)は御内儀是無きゆえ、これ又御のぞみの時、御本城(織田信雄)と三七殿(織田信孝)と御兄弟申し分有りて、三七殿御申し候は、なじみの女をもち申し候に、信長のいもとをこしもとつかいに仕るべしとの事かと御申しやぶり、殊に柴田は女もなく候由、其の上若きより忠功のもの彼是御申し分候、其の上に後家さまも三七殿御申し分一所に成され、柴田殿へ御祝儀に候、

とある。すなわち、秀吉と勝家はともにお市の方に想いを寄せていたところ、織田信雄と同信孝との間で主導権争いがあり、信孝が、秀吉にはすでに妻(「なじみの女」)がいるので、お市の方を侍女にするつもりかと言って秀吉の申し出を退け、対して勝家には妻がいないうえに、若い時期から織田家に忠功をはたらいていると主張し、お市の方も信孝の主張を支持して、勝家と結婚した、という。

柴田勝家像
柴田勝家像(画像=福井市立郷土歴史博物館『柴田勝家』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ここでは秀吉と勝家がともに、お市の方に想いを寄せていたこと、信孝が信雄との主導権争いを優位にするために、勝家を味方につけるため、秀吉の意向を退け、お市の方も信孝の主張を支持して、勝家と結婚することにした、という内容になっている。

江戸中期の史料にも同じエピソードが

もう一つの史料が「祖父物語」である(『史籍集覧』十三巻三二七頁・前掲書八二六〜七頁)。同史料については、これまでは慶長年間(一五九六〜一六一五)頃の成立とみられていたが、文中の表記内容などから、江戸時代中期くらいの成立と考えられる。

そこには、

太閤(羽柴秀吉)と柴田修理(勝家)と取り合いは、その頃威勢あらそいとも云う、又は信長公の御妹お市御料人のいわれなりとも申す也、淀殿の御母儀なり、近江の国浅井(長政)が妻なりける、浅井にはなれさせ玉いて、御袋(報春院)と一所におわしけるが、天下一の美人の聞こえ有りければ、太閤御望みを掛けられしに、柴田岐阜へまいり、三七殿(織田信孝)へ心を合わせ、お市御料を迎え取り、己が妻とす、

とある。すなわち、お市の方は「天下一の美人」の評判であったため、秀吉はお市の方との結婚を要望したが、勝家はそれに対抗して、岐阜城にいって城主の織田信孝とはかって、お市の方を自身のもとに迎えて、妻にした、という。ここにお市の方が「天下一の美人」と記されていることが注目されるが、それについては後ほど取り上げるので、ここで取り上げることはしない。

ここでは、秀吉と勝家の主導権争いは、互いの威勢を争ったものとも、お市の方をめぐるものであったともいう所伝を伝えて、後者について、秀吉がお市の方と結婚することを要望していて、勝家はそれに対抗するために、織田信孝を味方に付けて、お市の方との結婚を実現させた、という内容になっている。