家康の信条は「世論重視」

今川義元が織田信長に殺された後、家康は故郷の岡崎に戻った。岡崎城に入ると、かれは城下町に奉行を置いた。

このとき、奉行に命じたのは一人ではない。三人いた。それも、それぞれ性格の違う人間を組み合わせた。

これは、かれが徳川幕府を開いてからもつねに用いた方法である。すなわち、ひとつの管理職ポストに対して、必ず複数の人間を任命する。これは、のちに幕府首脳部である老中、若年寄、大目付はじめ諸奉行に対してもおこなわれた。これらの役職者たちは、「月番」といって、一カ月単位で仕事をおこなう。そうなると、

「今度の月番のお役人より、先月のお役人のほうがよかった」

という評判が立つ。家康にすれば、まるで部下をドッグレースに追い込んだようなものだ。

これはかれの性格による。かれは慎重と果敢の絶妙なバランスを保つことができた。そして、そのバランスを保つ柱や台になったのが、「忍耐心」である。しかしかれの忍耐心は単なる「我慢」ではない。はっきりいえば、その忍耐心を支えていたのは「世論」だった。戦国時代の武将で徳川家康ほど世間の評判を気にした人物はいない。

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世論が自分を支えるまで、じっと待つ

かれが天下人への道を歩いてゆく過程を見ていると、必ず世論によって決断を下している。

つまり、世論が自分を支えてくれるまでは、静かに待つ。慎重に待つ。そして、世論が自分の方向に風向きが変わったと見れば、たちまち果断な行動に出ていく。その間、この慎重と果敢の間にあって、ヤジロベエのようにその振り子を支えるのが、忍耐心であった。

そして、その世論を形成するためには、ときにかれは常軌を逸した行動にも出る。つまり他から見ると、

「あの行動は、少し慎重を欠くのではないか。果敢といっても、あれでは猪突だ」

といわれるようなこともおこなう。たとえば、三方ヶ原の合戦だ。