窓にさしかけたハシゴから屋根に

昭和天皇は参賀の時の国民との距離をもっと近づけたいとお考えになる。

そこで昭和25年(1950年)4月29日の「天皇誕生日一般参賀」から、宮内庁正面玄関の車寄せにさしかけるように突き出た屋根の上に場所を移された。これなら国民との距離は30メールほどに縮まる。しかしそのままでは危険なので、簡単な柵をめぐらし、それに綱を張って、“バルコニー”という体裁を整えた。

昭和天皇実録』に「宮内庁庁舎正面玄関上二階バルコニー」(昭和25年[1950年]4月29日条)と書いてある場所の実態は、そのようなものだった。

その“バルコニー”にお出になるためには、玄関屋根の位置にあたる2階の式部官長室にお入りになり、官長室の窓にさしかけたハシゴを登って屋根の上に出られたという。天皇ご自身がわざわざハシゴを登ってお出ましだったとは、当時の国民は誰も想像できなかっただろう。そのハシゴは木製で、この日のために特別に作った取り外し可能なものだった。

このバルコニーからだと、国民は昭和天皇のご表情を拝見できた。一方、昭和天皇からも国民一人ひとりの顔が見えた。昭和天皇は屋根の上を右に左に移動されて、少しでも国民に近づこうと柵ぎわまでお寄りになった。国民もこれに応じて、一段と大きな声で「万歳」を唱え、拍手した。しかし宮内庁の役人としては、お足元が危なっかしくてヒヤヒヤしていたようだ。

ちなみに、このバルコニーにお出ましになっていた頃の昭和天皇のご年齢は、50代前半だった。

皇后もバルコニーに

ステップ3

香淳皇后は、昭和23年(1948年)1月2日の一般参賀にお姿を見せられて以降、しばらくお出ましはなかった。しかし昭和26年(1951年)1月1日に宮内庁玄関バルコニーにお立ちになってからは、ご体調などが許すかぎり、お出ましになることが恒例化した。

サンフランシスコ講和条約が昭和27年(1952年)4月28日に発効し、貞明皇后(大正天皇の皇后)崩御ほうぎょ(昭和26年[1951年]5月17日)の喪が明けた翌昭和28年(1953年)1月2日の参賀では、皇后は初めて金茶地色に鳩模様の和服を召され、人々に新鮮な印象を与えられた。