参賀者が殺到して死傷者も
ステップ4。
講和条約の発効により、日本は独立を回復し、国際社会に復帰した。そのため、1月1日に「新年祝賀の儀」が憲法に定める国事行為の「儀式」として位置付けられ、その中に外国の使節から祝賀を受けることも組み込まれて拡充されたことから、同日の一般参賀は昭和28年(1953年)以降、翌日の2日に行われるように変更された。
ちなみに、1月2日に変更されて最初の昭和28年(1953年)の新年一般参賀に香淳皇后が和服でお出ましになったことは先に紹介したが、独立回復後初めての参賀であり、しかも前年の参賀が貞明皇后の喪のために行われなかったという事情も重なったことから、じつに64万2200人(皇宮警察調べ)という驚くべき数の参賀者があった(「読売新聞」昭和28年[1953年]1月3日付)。
なお、その翌年昭和29年(1954年)には参賀者が皇居正門石橋に殺到し、16名が死亡し(のちに1名が加わる)、60余名が負傷する痛ましい「二重橋事件」が起きている。一般参賀にともなう最大の悲劇だった。
皇太子ご夫妻ら、ほかの皇族方も
ステップ5。
昭和34年(1959年)の「天皇誕生日一般参賀」から皇后以外の皇族方もお出ましになり、それが翌年から新年一般参賀でも恒例化した。
昭和34年(1959年)の天皇誕生日一般参賀の時には皇太子(今の上皇陛下)、皇太子妃(今の上皇后陛下)、義宮(正仁親王殿下、昭和天皇のご次男、常陸宮殿下)、清宮(貴子内親王殿下、昭和天皇のご4女、後に島津久永氏とご結婚)がお出ましになった。
「パチンコ玉事件」と「発煙筒事件」
ステップ6。
参賀の場所は「二重橋事件」の後、昭和30年(1955年)から皇居広庭(明治宮殿跡地)に移った。昭和天皇・香淳皇后は、お立ち台の上に立たれて国民の祝賀にお応えになっていた。
その後、現在の宮殿(昭和宮殿)の造営が始まったので、昭和39年(1964年)から43年(1968年)まで一般参賀が行われなかった。宮殿の落成式は昭和43年(1968年)11月14日だった。
こうして翌年から、新しく完成した宮殿の東庭で参賀が行われる現在の形が定まった。これまで見てきたように、一般参賀という行事の方が昭和宮殿の造営より先行したので、宮殿は一般参賀が行われやすいように設計されている。この事実は意外と知られていないかもしれない。
ところが、宮殿が新築されて最初の参賀が行われた昭和44年(1969年)1月2日に、不祥事が2件も起きている。「パチンコ玉事件」と「発煙筒事件」だ。
パチンコ玉事件は、この日の第1回のお出ましが終わる間際に起きた。昭和天皇のお立ち位置の27メールほど前方にいた男が手製のゴムパチンコ(スリックショット)で天皇を狙って4個のパチンコ玉を発射し、そのうち2個がお立ち位置の直下のベランダ縁に当たった。実行犯はその場で皇宮護衛官に取り押さえられた。