一般国民が皇居の中へ
まずステップ1。
そもそも戦前には身分の制限が厳しく、皇居の中に一般の国民が入ることは認められていなかった。しかし、昭和22年[1947年]5月3日に日本国憲法が施行されてからは、国民一般から等しく参賀を受けるべきであるとの考え方により、翌年の正月からそれを実施することになった。
昭和23年[1948年]1月1日、初めて新年一般参賀が行われた(当時は「国民参賀」と呼んだ)。もともと正午から開門の予定だったが、参賀者がすでに数千人も集まっていたので、15分早めて開門した。宮内府(昭和24年[1949年]6月1日から宮内庁)としては、皇居正門から参入した国民は、鉄橋付近の特設記帳所で住所・氏名を記帳した後、再び正門から退出する、というコースを予定していた。しかし、参賀の人数が予想外に多かったので、混乱を避けるために、正門に戻らずに、そのまま戦災で焼け落ちた明治宮殿の焼け跡と宮内府の庁舎前を通りすぎて、坂下門から退出するコースに変更された。
この日の一般参賀の様子は昭和天皇に報告され、天皇は大変喜ばれたという。参賀者の正確な数は分からないが、およそ6、7万人と推定されている。
この当時、明治宮殿が焼失したため、昭和天皇は宮内府庁舎の2階でご公務にあたっておられた。このことと、参賀のコース変更がステップ2につながる。
「せっかく国民が来ているのだから」昭和天皇が屋上へ
次にステップ2。
同じ昭和23年[1948年]1月2日、前日に引き続き一般参賀が行われた。新年一般参賀が2日続けて行われたのは、この年だけの例外だった。
この日は、最初から参賀者は坂下門から退出するように誘導された。宮内府庁舎2階のご公務室におられた昭和天皇は、参賀の様子をお聴きになって、「せっかく、国民が来ているのだから、どこからか、その様子を見ることはできないだろうか」とおっしゃった。これに侍従が「屋上へ上がれば見えると思いますが――」と答えると、「では行ってみよう」と早速、庁舎の階段を上って屋上に出られた。侍従はコートを持って後から追いかけた。昭和天皇の驚くべき行動力と言わねばならない。
なお昭和天皇が屋上に上られた日付について、星野甲子久氏『天皇陛下の三百六十五日―ものがたり皇室事典(上)』(昭和57年[1982年])は1月1日とするが、ここでは『昭和天皇実録』(昭和23年[1948年]1月2日条)の日付を採用する(他にも異同がある)。
参賀者は、昭和天皇が国民の様子を見るためにわざわざ吹きさらしの屋上に立っておられるのに気づいて、さぞかし驚いただろう。人々は口々に「万歳」を唱える。すると昭和天皇も、帽子を大きく振ってそれに応えられた。
しばらくして香淳皇后も屋上にお姿を見せられ、お揃いで参賀者にお応えになった。宮内府がまったく予想しなかった光景が展開されることになった。ただし、香淳皇后のお出ましはこの後、しばらくなくなる。
この日の参賀者の総数は約13万~14万人に達した。2日間で20万人もの参賀があった計算になる。その頃の日本の人口は8千万人余りなので、現代の人口規模に換算すると、かなり大きな数字になる。