地下4mの地点、棺の中で着物を着た諭吉が寝ていた
ところが、常光寺が本堂を構えるに当たって、寺を維持管理するための檀家の集まりである護持会組織が発足したことで、事態は動き出す。その会則に「常光寺に墓所を持つ檀家は浄土宗信徒であること」「信徒でなければ改宗すること」「改宗できなければ、墓を移転すること」などが明記された。決断を迫られた諭吉の遺族は常光寺からの撤退を決める。
そうして本来の菩提寺である麻布十番の善福寺への「改葬」が実施されることになった。1977(昭和52)年5月のことだ。ちなみに改葬とは、「墓の引っ越し」のことである。
「改葬」という言葉は1948年(昭和23年)にできた「墓地、埋葬等に関する法律」にも出てくる。しかし、諭吉の改葬が実施された45年前は墓を動かすことはまだまだ一般的ではなかった。
改葬が増えていくのは、平成の時代になってから。諭吉の墓の引っ越しは、「改葬のはしり」と言えるだろう。ともかく諭吉の墓は76年の時を経て、掘り返されることになった。
まさか、「眺めがいいので」という何気ない理由で墓を求めたことが発端となり、寺や親族、大学関係者を巻き込み、最終的には菩提寺に改葬されることになるとは、諭吉自身は想像だにしなかったに違いない。ところが、物語はそれだけで終わらない。
常光寺の先代住職や慶應義塾大学の関係者らが見守る中、諭吉が眠る墓の掘り返し作業は数日間かけて実施された。まず2mも掘ったところで、「福沢諭吉先生永眠之地」との銘が刻まれた石が出てきた。さらに地下3mの地点で、錦夫人の遺骨が出てきた。
そして、ついに地下4mの地点で諭吉の棺が見えてきた。棺を開け、関係者が中を覗き込むと、中は冷たい伏流水で満たされ、そして着物を着た諭吉が寝ていた。
驚いたことに白骨化することなく、ついこの前に亡くなったかのような姿だった。遺体はミイラというより、屍蝋化(※)していた。遺体が棺から出されると、大気に触れたことで急激に酸化し、みるみる緑色に変色していったという逸話も残っている。当時を知る関係者によると、諭吉の遺体には、大量の「お茶の葉」がまとわりついていたという。
※体内の脂肪が脂肪酸となり、さらに蝋状になって、死体を原形に保つ(デジタル大辞泉より)
「遺体が抗菌作用のある茶の葉と、冷たい伏流水に浸かった状態だったため、奇跡的に生身のまま残ったようです」(関係者)