人は、その知識が役に立つと考えて知識を探求するのではない
ここに上がったリスト、現代に生きる私たちには、とても信じられる話ではありません。読者のみなさんも、ヤクート族のその種の薬の服用や治療法を勧められても、ちょっと従う気にはならないでしょう。読者のなかには、「バカバカしい、そんな与太話に付き合えるか」と思う方もおられるかもしれません。
そうした現代人の対応に対して、レヴィ=ストロースは、次のように言うのが印象的です。「かような知識は実際的にはほとんど有効性をもたぬという反論があろう。ところが、まさにおっしゃるとおりであって、第一の目的は実用的ではないのである。このような知識は、物的欲求を充足させるに先立って、もしくは物的欲求を充足させるものではなくて、知的要求に答えるものなのである」(『野生の思考』12頁)と。
レヴィ=ストロースの意見にしたがうと、これらの自然物―薬効リスト群を前にして考えるべき大事なことは、キツツキの嘴に触れると歯痛が治るかどうかではない。どのような観点からか、キツツキの嘴と人間の歯を「いっしょにする」ことができるかどうかにあると言うのです。レヴィ=ストロースの考えを理解するうえで、ここは大事なところです。
確かに、キツツキの嘴に触れることで歯痛は治りそうもありません。そうした不合理さゆえに、ヤクート族が、どうしてこの2つの要素を結びつけたのか、逆にそのことが不思議に思えてきます。そう気がついたときに、「キツツキの嘴に触れることで歯痛が治ると考える以前に、その嘴を人間の歯を一緒のものと見なすという仮定がある」という、レヴィ=ストロースの指摘に納得がいきます。歯痛に関するその処方箋は、「キツツキの嘴と人間の歯は一緒のものだ」という仮定のもとで展開されるいろいろの応用例の1つなのです。それだと、こんな不合理な命題が生まれたわけもわかるというものです。
この結論は重要です。ふつうは、実用的な理由がそうした精密な知識を要求すると理解します。「与えられた環境の中で生き抜くために、そうした知識が必要とされるのだ」と、つい考えてしまいます。無理のない考えですが、しかし、レヴィ=ストロースの意見はそうではないのです。繰り返しになりますが、「動植物に関する知識がその有用性に従ってきまるのではなくて、知識が先にあればこそ、有用性ないしは有益という判定がでてくるのだ」と主張するのです。
混沌よりも秩序を
では、どうして「異種のモノを、一緒のものとして見よう」と思うのでしょうか。それは、人が世界の秩序を求めるがためなのだと、レヴィ=ストロースは考えます。ヤクート族が、人の歯とキツツキの嘴を一緒にすることは、世界に1つの秩序を導入していることを意味します。そして、レヴィ=ストロースは、こう言います。
「けだし分類整理は、どのようなものであれ、分類整理の欠如に比べればそれじたい価値をもつものである」と(『野生の思考』、13頁)。
人は、死なないように生きるというだけの存在ではない。知的関心(好奇心)に沿って自分を取り巻く世界の理解をいっそう深めたいと願う存在ではないか。人は、何より混沌(カオス)を避けたいと思い、秩序だった世界像を確立したいと願う存在ではないか。そのことは、未開の人であっても現代の人であっても、人であるかぎり変わりはしない。レヴィ=ストロースが、私たちに伝えたかった1つはここにあると思います。「人は、決して生きるために生きるわけではない。何か、知りたくて生きるということもあるのだ」と。何かちょっと救われたような気にならないでしょうか。