あらゆる技芸にすぐれた万能の帝王
和歌だけでなく、朝廷政治の基本となる漢学も収め、その成果を『世俗浅深秘抄』という有職故実の著作にまとめた。音楽にも才能を発揮し、二条定輔に師事した琵琶の腕前は、趣味のレベルをはるかに超え、琵琶の秘曲を次々と伝授されている。
運動能力も高く、蹴鞠(けまり、しゅうきく)の腕前はトップレベルで「長者」の称号を贈られたほか、水泳、乗馬、笠懸、狩猟と、あらゆる武技に優れ、刀剣の焼き入れまで行ったという。
まさに万能。それと政治力は別だと思うかもしれないが、当時の宮中では、漢学や和歌のほか音楽の教養が「政」に欠かせないと考えられていた。そのうえ、武士の領分だった武技にもすぐれており、まさに自他ともに認める万能の帝王だったのだ。
たとえば第43話(11月13日放送)では、上洛した北条義時の弟、時房が鎌倉一の蹴鞠の名手と聞いた後鳥羽上皇が、身分を明かさず時房と鞠を蹴り合ったのは、後鳥羽の「万能性」の一端を示している。
皇子を鎌倉へ送り込み幕府を牛耳る
ただし、大河ドラマでの描き方には異論もある。
自身のために祈禱を行う慈円(摂政、関白を務めた九条兼実の弟)を常にそばに侍らせ、意見を聞きながら鎌倉への敵愾心を募らせているが、そもそも慈円は鎌倉との協調が必要だと考えていた。
後鳥羽上皇は、人の意見にいちいち左右される「小物」ではなく、それが万能の帝王の万能たるゆえんだったはずだ。
そして、常に目端が利き、鎌倉対策も抜かりはなかった。
後継ぎが生まれない実朝は、後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎え、自分はその後見人になることを思いつく。それは後鳥羽にとっても渡りに船だった。
皇子を送り込めば鎌倉を支配できる。だが、北条に後見されては元も子もない。そこで実朝を、上皇の皇子の後見人にふさわしいように猛スピードで出世させた。建保6年(1218)正月、実朝は27歳で権大納言に任官されて父頼朝に並び、3月には武官の最高官職である左近衛大将への任官で、父をも超えた。
同じ年の10月には内大臣、12月には右大臣に任ぜられた。位階は正二位で父と同じだが、官職では大きく上回ったのだ。
ところが、翌承久元年(1219)正月27日、実朝は右大臣任官の拝賀が行われた鶴岡八幡宮で、2代将軍頼家の遺児、公暁に殺されてしまうのである。