「殺人」以外は許される野蛮なスポーツ
中世から現代までの何世紀にもわたって、ボールを使用したいくつもの娯楽や試合がイギリス各地で行われていて、それらは「モブフットボール」「マスフットボール」「フットボール・オブ・マルティチュード」などと呼ばれていた。
そのほとんどでは手と足の両方が使用可能で、対戦するそれぞれのチームの人数は20人、50人、場合によっては100人を超えた。隣り合う村同士で対戦することが多かったが、既婚男性のチーム対未婚男性のチームの場合もあり、町中や公園内の即席の場所や、2つの村の境界線上の原っぱなどで行われた。
ゴールポストはなく、ボールを手で抱えて、あるいは足で蹴って、定められた場所――木、川岸、もしくは町の中央広場――まで運び、そこに置く。いわば「サッカーでもありラグビーでもある」、つまり両方の競技の融合のような感じのスポーツだった。
「マスフットボール」のひとつが「ロイヤル・シュローヴタイド・フットボール」で、これは相手からボールを奪う時には「殺人」以外のあらゆる手段が認められていた野蛮なスポーツだった。
パンチやキックが許されていたため、選手同士の激しいぶつかり合いで多くの死者が出たが、たいていは偶発的な事故だった。しかし、ノーサンバーランド・カウンティのある古い教会の蔵書から、1280年にウルガムの村で発生した異例の事態の記録が発見された。試合中に選手のひとりが相手チームの選手に刺殺されたというもので、これが歴史に残る最古のサッカー犯罪に当たる。
「神が禁じた娯楽」として投獄刑の対象に
サッカーは一般市民の間でも大いに人気を獲得したが、19世紀の半ばまでは当局からの承認を得られなかった。1314年にロンドンの市長は、通りや公園で混乱を引き起こすという理由から、市の城壁内での試合を禁止した。試合をした人たちは数カ月間投獄された。14世紀のイングランドのある司教によると、この娯楽を実践すると「多くの悪を生じさせ、それは神によって禁じられている」とのことだった。
その数年後、国王エドワード3世は「役に立たない愚かな遊び」という理由から試合を認めず、「投獄刑に処す」とした。人気を集めて広まっていたこの娯楽を禁止する法律が、国や地方によって30以上も定められた。1410年、国王ヘンリー6世は「サッカーをするという罪を犯した」人に罰金を科した。ほかの君主たちもアーチェリーのような「より戦争に役立つ」競技を推奨した。
高位の人間がこの競技に与えた軽蔑的な評価の一例として、1608年にウィリアム・シェイクスピアが発表した『リア王』がある。第1幕第4場で、ケント伯がオズワルドという名前の執事をけなして、彼のことを「品のないサッカー選手」と形容する場面がある。