2009年、プロレスラーの三沢光晴さんが試合中の事故で亡くなった。対戦相手だった斎藤彰俊さんは、責任を感じ、一度は自ら命を絶つことも考えたという。その後、斎藤さんはどのような思いを抱え、どんな人生を歩んだのか。読売新聞の人物企画「あれから」をまとめた書籍『人生はそれでも続く』(新潮新書)より紹介する――。(第2回)
2006年の試合で、三沢さんをバックドロップで投げる斎藤さん
写真提供=プロレスリング・ノア
2006年の試合で、三沢さんのエルボーを受ける斎藤さん

「天才」と呼ばれたレスラーが受けた最後のバックドロップ

約2300人のファンの熱気で、会場は沸いていた。2009年6月13日、広島県立総合体育館。「プロレスリング・ノア」の人気プロレスラーだった三沢光晴さんと、斎藤彰俊さんが、リング上で渾身こんしんの技をぶつけ合った。

試合開始から30分。斎藤さんがバックドロップを放った。どんな技を受けても不死身のように起き上がり、「受け身の天才」と呼ばれた三沢さんが、倒れたまま動かない。

会場は騒然となり、心臓マッサージが始まる。「三沢さんなら必ず起き上がる」。斎藤さんは祈り続けた。だが、三沢さんが目を覚ますことは、二度となかった。

リングで倒れた三沢さんが運ばれたのは、広島市内の大学病院だった。斎藤さんも駆けつけた。

背後から相手の腰を両腕で抱え、後ろへ反り投げる「バックドロップ」。その技を、斎藤さんが三沢さんにかけた。それからわずか1時間余り。三沢さんが亡くなった。46歳だった。午後10時10分。死因は頸髄けいずい離断という。斎藤さんは病室で三沢さんと対面し、立ち尽くした。

死んでおわびをするか、引退か、それとも…

夜が明け、朝になった。その日も、福岡県で試合が予定されていた。対戦カードは、多くの関係者が苦労して練り上げている。プロとして、「休む」という選択肢はない。

死んでおわびをするか、引退してリングから去るか、試合に出るか。この三択しかないと、斎藤さんは考えた。

所属するプロレス団体「プロレスリング・ノア」の指示もあり、病室を出て、宿泊先のホテルに向かった。途中、大きな川にさしかかり、橋のたもとから河原に下りた。

ここで自分の一生を決めなければ。川のせせらぎを見つめながら、思い定めた。

憧れ、尊敬していた三沢さんに全身でぶつかった。自ら命を絶ったり、引退したりするのは逃げになる。「自分が消えれば、ファンの怒りやかなしみの行き場がなくなる。リングに上がって、皆さんの見える所で、全てを受け止めよう」

斎藤さんは「試合に出る」という決断をした。