元水泳選手の空手家が進んだ傍流
仙台市出身の斎藤さんは、小学生で競泳を始めた。愛知・中京高に進んでインターハイを、中京大でインカレなどを制し、五輪の強化選手に選ばれた。だが、1988年のソウル五輪の代表選考会は5着。五輪には行けず、競泳は引退した。名古屋市のスポーツ関連団体に就職した。
実は、幼い頃からプロレスや空手漫画も好きで、高3からは、空手道場にも通い始めた。水泳はやめられても、プロレスへの熱い思いは消えない。90年、斎藤さんは愛知県半田市で行われた試合に上司に黙って出場し、デビューを果たす。「技が効いているかいないかも、わからなかった。でも、リングに立てた感動が忘れられない」
まだ20歳代半ば。体は動くし、体力には自信がある。所属先のあてもないまま職場に辞表を出した。フリーの立場で、小規模団体が主催する興行への出場を重ねた。
日本のプロレス界には、かつてジャイアント馬場さんが率いた「全日本プロレス(全日)」と、アントニオ猪木さんが創設した「新日本プロレス(新日)」の2大潮流がある。〈元水泳選手の空手家〉の斎藤さんは、そのどちらにも縁がなく、いわば「傍流」を漂っていた。
そんな斎藤さんは、92年1月、新日本プロレスの東京ドーム大会に空手団体の仲間と乗り込んで注目され、新日への参戦が認められる。だが、プロレスの基礎を知らない。
「まずは受け身を覚えさせなきゃダメだ、と思ってね」。ベテランレスラーのザ・グレート・カブキさんが、見るに見かねて教えてくれた。「蹴りは速くて運動神経もいい。何より素直で、やる気があったから」
少しずつ技を身につけた斎藤さんだが、生活や立場が安定してくると、「自分にはハングリー精神が足りない」と思い始める。「今までやったことがないことを、一番条件の悪い所でやろう。成功したら、プロレスに戻ろう」
99年、突然、新日を脱退し、不動産業者が「絶対に繁盛しない」と言った名古屋市内の路地裏の雑居ビルでバーを始めた。
昼はアルバイトもしながら生計を立て、やがて800種類の酒を揃えたこだわりの店として知られるように。経営が軌道に乗った頃、三沢さんの「ノア」設立を知った。
「三沢さんの下でリングに上がりたい」
同じプロレスラーでも、三沢さんは「育ち」が違った。レスリングの名門高校の出身で、全日本プロレスでは2代目タイガーマスクとして活躍。全日を脱退後、2000年8月にノアをつくると、三沢さんを慕って多くの選手が移籍した。
「2大潮流のうち、自分は新日を経験した。全日にいた三沢さんの下で、もう一度リングに上がりたい」
三沢さんが名古屋に来ると聞き、斎藤さんは直談判に行った。ほんの数分。立ち止まって話を聞いてくれた三沢さんは「包み込むような大きさがあった」。後日、ノアの試合で力量を試してもらえることになった。
リングから離れた間も体は鍛えていた。結果は「合格点」。バー経営をどん底からなし遂げたことで、ハングリー精神が戻った手応えがあった。
プロレスに復帰した斎藤さんは、持ち前の「真正面からぶつかる」スタイルで突き進んだ。三沢さんとも何度も対戦した。そのたびに、三沢さんの強烈な「エルボー」の威力と、受け身のうまさ、どんな攻撃を加えても立ち上がる強靱さに、畏怖の気持ちがどんどん大きくなった。