勘左衛門は敵中に駆け入ると、さっそく敵の首を取り、その鑓や刀も持ち帰り、川上忠兄に見せて「今日の太刀初め」と豪語した。そしてまた敵中に切り入って討死を遂げた(『新納忠元勲功記』)。

有栄の手記によれば、敵味方とも識別のための合い言葉を使っていたが、敵方の合い言葉が「ざい」で、島津方のそれも「ざい」だったため、乱戦のなかでよく敵味方を間違えたという。同士討ちがあったり、味方と思って安心したところを斬られたりするという場面もあったのだろう(「山田晏斎覚書」)。

島津勢は敵の大軍のなかでもがき戦った

島津勢は身軽になろうとしたのか、蛭巻ひるまき削掛けずりかけを打ち捨てて押し出した。蛭巻は太刀の柄・鞘や長刀なぎなたの柄に細長くて薄い金属板をらせん状に巻きつけたもの。これをはずせば、太刀や長刀はだいぶ軽くなる。削掛は柳の枝などを細く削り、先を花のように折り返した棒で、長さ一尺二寸(約36センチ)以下で、味方の合印に使う。これを二本所持し、一本は後ろの帯に、もう一本は左の脇前に差した(『島津家御旧制軍法巻鈔』下)。

数の少ない島津勢は正面や左右から押し寄せる東軍の大軍のなかに飲み込まれながら、敵味方入り乱れて、もがくように戦った(「黒木左近兵衛申分」)。

「此方軍衆(島津勢)、右も左も敵を刈られ候、猛勢入り乱れ、敵味方分かちもこれなく候」

三、四町(3、400メートル)ほど進むと、敵影が薄くなった。東軍諸勢は西軍首脳である石田三成や宇喜多秀家を追うことに熱中していたのか、島津勢にかまう武将が少なかったのも幸いした。

豊久を見失い、引き返した山田有栄

有栄は常に豊久の馬標うまじるしを見てその位置を確かめながら戦っていたが、一息ついて「中書様(豊久)はどこにおいでか」とまわりに尋ねた。いつの間にか豊久の姿を失ってしまったらしい。家来の荒木嘉右衛門や上田蔵助が「あとからおいでになるでしょう」と答えると、有栄は「どうしたものか」と豊久の安否が気になり、馬首をめぐらそうとした。嘉右衛門と蔵助が馬の手綱に取り付き、黒木左近兵衛や荒木助左衛門も馬の尾房おぶさに取り付いて引き留めた。

「中書様のお馬があとから参られるのを見たのは間違いない。あとへ引き戻り確かめてみたい」

有栄は家来たちが引き留めるのもきかずに引き返した(同書)。