活躍したのは古墳中期と考えられる
この地域は飛騨国三郡のうちの荒城郡(のち吉城郡と字を「荒」から「吉」へ変えた)にあたり、飛騨の宿儺の活躍した土地であることが伝説や信仰、さらにのこされた「両面宿儺像」などから推測される。
さらに飛騨の宿儺がいた仁徳のころは考古学での古墳中期だが、のちに述べるように飛騨での最大規模の墳丘の古墳が、荒城郡の元の国府町に集中している。前方後円墳や大円墳である。
多くの建築技術者が都の造営に駆り出された時代
持統天皇が飛鳥の北に新しい都城としての藤原京の造営を始めると、いままでにはなかったほどの多くの建物を作る必要がおこった。六九〇年ごろからの約二十年間であり、この最中に大宝令が制定され「賦役令」で建築技術者としての斐陀人を国家の力で使役するようになった。
話は持統の夫の天武天皇が六八六年に没した時に遡る。天武の死後、盛大な殯の儀式がおこなわれた。この時に天武の子の大津皇子の行動が謀反とみられ処刑された。そのさい大津皇子に加担したとされたなかに新羅の沙門行心がいた。行心は特別のはからいで「飛騨国の伽藍に徙した」(『紀』)。
なお行心が流された飛騨国の伽藍とは、元の国府町にある石橋廃寺や古川町にある寿楽寺跡が候補地とされている。寿楽寺跡からは、名古屋市の尾張元興寺にある忍冬文の丸瓦と同型の瓦が出土している。尾張元興寺は尾張国でも最古の伽藍跡である。
宿儺の逸話が後世の都に伝わった
寿楽寺跡は斐陀国造の氏寺の可能性が高い。『先代旧事本紀』の「国造本紀」では、斐陀国造の出自は尾張連としている。尾張元興寺も尾張氏に関係があったとみられ、同型の瓦の意味するところが大きそうである。
先ほどの天武の殯には、“国々の造らも参加し、それぞれ誄をし種々の歌舞をおこなった”とある。この時に斐陀国造が誄のなかで、飛騨の宿儺の昔話をし、それが『紀』の記事になったことは考えてよかろう。
先ほどから『紀』が飛騨の表記に統一していることに気付いたことであろう。
行心はしたたかな人物で、大宝二年(七〇二)に国司を介して天皇に神馬を献じている。このことを祥瑞とみて政府は天下に大赦をおこなっている。『続日本紀』はこの記事の最後に「瑞を獲る僧隆観は罪を免じて入京せしむ」とあり、割註で「流僧幸甚の子なり」としている。幸甚は行心のことであろう。なお隆観はその後に還俗して名を金財にした。
斐陀(太)という表記を飛騨としたのは、大宝二年の神馬の献上にともなっての変更とみられ、『紀』は飛騨に統一している。飛騨の宿儺の話は仁徳の時代のことであっても、都に伝えられたのは『紀』の編纂の直前だったとみてよかろう。