奨学金という名の立派な借金

しかし、当の一般大衆は、我が子には自分より多い収入を得させたいという夢を描いていた。そのためにはやはり大学には行かせなければと考えたので、授業料が上昇したにもかかわらず、大学進学率も同様に上昇していったのだ。

その後も財政悪化を理由に国から大学への補助金は年々引き下げられ、国立大学の授業料は2003(平成15)年には52万800円になっている。2004年に国立大学法人となって以降は53万5800円とされる標準額から一定範囲内なら独自の判断で授業料を増減できることになったため、例えば東京工業大学の2021年の年間授業料は63万5400円にまでふくらんでいる。

授業料が高くても、奨学金などのケアがあれば公平なのだが、2020年に始まった国の修学支援制度は、住民税非課税世帯とそれに準じる所得の家庭に限られており、相対的な低所得層まで十分カバーされているとは言い難い。

奨学金の中には返済義務のあるものも多く、なかには有利子のものまで含まれるので、これはもう奨学金という名の立派な借金である。

写真=iStock.com/Tero Vesalainen
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大学に進学しても逆効果に

こうなると社会人生活とともに借金返済が始まることになり、頼らざるを得なかった奨学金によってマイナスからのスタートになってしまう。

大学を卒業したとしても、非正規社員などの不安定な職にしかつけなかった場合は、その借金のせいで生活はどんどん困窮していくかもしれない。

経済的弱者からの脱出を目指し、必死に努力して大学に進学したことがかえって逆効果になってしまうというのは、あまりにも気の毒な話である。

池田清彦『平等バカ』(扶桑社新書)

そういえば、私の若いころは、大学院の奨学金をもらえるかどうかは親の収入などとは関係なく、あくまでも成績順で決まっていたと記憶している。

大学院は純粋に学問をする場であることからしても、実にシンプルで理にかなったシステムだと当時は感じていたが、よくよく考えると、そのころは家庭の経済状況がいいあんばいに平等だったからこそ、それでよかったのだろう。

今も優秀な学生の授業料を免除するシステムはあるが、学力や体験の格差が、家庭の経済格差に左右される状況下では、そのような奨学金システムが果たして本当に公平なのかどうかは、なかなか悩ましい問題だね。

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