人間は、本当に突然なにが起こるかわからない

絵を描く高校生にとっても困難な作業だが、脳裏に焼き付いた光景を思い出しながら言語化をする作業も、被爆者にとっては辛いものだ。しかし、恵美子は数年間、このプロジェクトに協力し続けた。

人間、本当に突然なにが起きるかわからない。ぎりぎりのところだったんです。風向きが変わって火がストップしたいうんだけど。そうでなければ火に巻かれていたかもしれん。周辺部の生きてる者はゾロゾロゾロゾロみんな東練兵場っていう、軍の訓練場所へ避難した。

広島駅の北側一帯に広がっていた陸軍の演習場、東練兵場は死体だらけだった。

みんなやけどして。火災がズズズッて発生してくるから、避難するいったらもうそっちしかなかったんですよね。そういう中でもちっちゃい子どもでね、迷い子がいました。「おかあちゃん、おかあちゃん、おかあちゃん」ていうのが耳に残ってる。国民学校とかはみんな縁故疎開とか集団疎開とかで疎開したから、本当に私らぐらい。近所では数人ぐらいが、原爆に遭ってるんだけど。

みんな上へ上へ高いところに向かって避難して。あのときにもう何百何千わからんけどね、死んだ人、置いて逃げたり、見てもどうすることもできんかった人。それでもお寺さん、お宮さんは供養してくれてると私は信じとるわけ。身元がわからん人やらね、みんな家に帰れん人ばっかりだったと思う。軍隊の人なんかは大半軍服着てたりなんか残ってるけどね、一般の人やら子どもはほんとにね、なにも残ってない。お寺さんとかお宮さんには、ありがとうございますじゃないけど、私ら個人はなにもできんかったけぇね。浮かばれないよね、みんな逃げて逃げて、バタバタね。

歯茎から出血し、髪が抜ける「ピカドン病」

私の家族では姉なんだけど、親戚でいったら五人ぐらい亡くなってる。父の妹だったりね。その日は女学院に行って仕事するいうんだったんですけど、わかってるのは、女学院の方から泉邸せんてい(現在の縮景園)へ避難した、いうこと。友達が一緒だったけど、泉邸から別れ別れになって、橋を渡るときにもう行方不明になったいうこと。そこから先はわからん。泉邸からどっち向いて避難したのかもわからんしね。それとか的場の今の電停のまん前に叔母の家族が生活しててね。三遺体は地下でポッコリ遺骨が残ってたのが見つかったから、ここで死んだんじゃねというのがわかるんだけど。そういう風にそこで亡くなった遺骨があるものはわかるけどね。うちの姉みたいに集合した後はわからん、じゃあね。

私自身も、歯茎から出血して、髪が抜けて。もう死体と一緒に私、「たいぎい(しんどい)、たいぎい」って横になっとった。ピカドン病じゃ言われました。まだ放射線じゃいうのはわかっとらんかったから。

大人になって放射線の勉強してね。広島・長崎の者は放射線浴びとったいうの大人になってわかったんですよね。再生不良性貧血いう病名がついたんですが、それも血小板が破壊されてしまったからだったんですよ。亡くなった人も犠牲者だけど、生き残った者もみんな体内に放射線が入ってるから私みたいにけだるかったり嘔吐したりね。発熱したり。本当にそれは長年苦しみましたよ。

被爆者は苦しみを語ることすら許されなかった

しかし被爆者たちは、苦しみや悲しみを吐き出すことすら禁じられた。敗戦後、連合国軍占領下の日本では、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示によって言論統制(プレスコード)が敷かれたためだ。

被爆者は話すことができなかったですよね。自分のことを人に話してもいけないし、生き残った者もみんな同じような、私ひとりじゃないですからね。被爆していることが普通なんですよね。で、外傷でやけどした人はみんなが原爆とすぐわかりますけど、私らみたいに外傷がない者は、被爆者っていうのがわからないんですよね。だからぶらぶら病とか横着病とかそういう感じでしたね。とにかく起きられないというかね。毎日毎日続いたから。外傷の人は、見たらすぐやけどとかその後ケロイドとかで、今度は表へ出られないしね。人の目が怖い、差別を受けたりいうことがあったけど。

私は脚の付け根におできができて。今でも薄く残ってる。斑点が出たんですよ。おできが膿んでそれがだんだん広がってきて、おっきいきっぽ(傷跡)になってたんですよね。直径が五センチぐらいかな。もちろんお薬もないし、なかなか治らなかったですね。

写真=筆者提供
ノーベル平和賞の授賞式に招かれ、ノルウェー・オスロを訪れた岡田さん。左は被爆者の築城昭平さん(2015年)