突然ピカーッとあたりが光った
1945年8月6日、月曜日。よく晴れた暑い夏の朝だった。
恵美子は、母、弟二人とともに朝食を食べていた。すると、突然ピカーッとあたりが光った。尾長の家の南西約2.7キロの付近の上空で、午前8時15分に米軍が投下した原子爆弾が、炸裂した瞬間だった。
母が窓ガラスの破片を浴びて全身血を流しながら私たちの方に来たのを覚えてます。
自宅から避難する先は、私が(疎開前に)行ってた尾長国民学校と、父が働いていた学校なんだけど、もう校舎がウワーッと覆いかぶさってきてね。本当に狂ったように。立派な建物じゃない、昔の木造ですからね。校舎は火に包まれて、一気に火が狂ったように追いかけてきた。その下で吹き飛ばされた瓦礫やら、崩れたものでみんな、バタバタバタバタつまずいたままね、火が追いかけてくる中でたくさんの人が亡くなっている。私はそれを置いて山手の方に逃げてるからね。
それから強い風も来て、後から調べたら風向きが変わったとはいうんだけど、その下でたくさんの生きた人をね、私は本当に置いて逃げて、どうしてあげることもできんかったからね。
ただただ火が追いかけてくる
のちに取材を受けたりする際、何時ごろになにを、といった説明を求められることが増えたが、何時に火災になった、など、具体的な時間の記憶はない。ただただ、火が追いかけてくる中、たくさんの生きた人を見捨てて逃げた、ということは忘れることはできなかった。
父は中学生を引率して段原で作業をしていたところじゃった。比治山のおかげで亡くなった生徒はほとんどいないんですよ。段原の民家からいろいろ浴衣とかシーツとか引っ張り出して負傷者を介護する方に回ったんですよね。だから三日ぐらい後に帰って来たんですよ。ケガはみんなしてたんですがね。