社内で圧倒的な力を持つ営業部との対立

ハートランドビールは、「量ではなく質を追求し、コアなファンにだけ愛されるビール」として、「東京限定」で発売しようと前田は企画した。価格はラガーと変わらないが、いまでいうクラフトビールのような尖ったビールを目指す。ところが、社内で圧倒的な力を持つ営業部が、東京限定発売に反対する。「神奈川や埼玉の酒屋から不満が出て、市場が混乱する」と。

そこで、前田が目を付けたのがテレビの料理バラエティ番組。番組用のビールとして86年9月に登場する。ネットのある現在と違い、当時テレビの影響力は絶大だったのだ。翌10月には現在の六本木ヒルズの建設予定地に直営ビアホールをオープン。この店でだけ提供するハウスビールとして展開を始める。

ところが、ビアホールに人が押し寄せたため、営業部はハートランドを缶ビールにして全国発売してしまう。前田は「量より質」を目指したのに、ラガーと同様に量を追ってしまったのだ。しかも、翌87年3月にアサヒビールが「スーパードライ」を発売してヒットさせると、対抗商品にされてしまう。やはり営業部によってだった。

結局、“打倒ラガー”は叶わなかった。それでも、キリンが80年代に発売したビールの中で、いまでも継続販売しているのはハートランドだけである。

「キリンのラスプーチン」との社内コンペ

89年に入ると、大型商品「一番搾り」の商品開発を、前田はスタートさせる。ハートランドプロジェクトの後の88年頃から、前田は社内から商品開発を担うマーケターとなりうる若手人材の発掘を始めていた。

一番搾り開発では、工場の醸造技術者、若手営業マンが実質的にスカウトされる。いや、社内だけではない。ハートランドで培った社外人脈を駆使し、大手広告代理店の人選から、外部のアートディレクターやデザイナー起用まで、一番搾り開発では前田が決めていった。

だが、この後に前田にとっては屈辱的な試練が待っていた。

「スーパードライに対抗する大型商品は、いまのキリンには必要不可欠。よって、企画部でもマッキンゼーとともに大型新商品を開発する」

企画部から突然、このような提案がなされた。新製品開発はマーケティング部の仕事である。企画部の仕事は、組織・業務改革、会社全体の予算管理、さらに戦略立案など。その企画部、本来は黒衣のはずの外部コンサルティング会社マッキンゼーを巻き込み、具体的な商品開発を始めるという。

黒幕は、「キリンのラスプーチン」と呼ばれた企画部門の役員。「切れ者」「策士」と評される一方で、「米欧への出張に料金の高いコンコルドを使う」「他人の手柄を平気で横取りする」「『天皇』と称された本山英世社長(当時)に取り入って、虎の威を借りている」などとも言われた御仁だった。

結局、前田チームと企画部・マッキンゼーとを競わせ、両者がつくった新製品のどちらかを発売するということになる。

相手は大物の役員だったが、前田とすれば面白いはずはない。しかし、周囲に気にするそぶりを見せなかった。もともと前田は、自分の感情を表に表すタイプではなかった。特に、「他人に自分の弱みを見せない男だった」(キリン関係者)という。

前田チームが開発した一番搾りは、仕込み工程で得られた糖化液(もろみ)をろ過したとき最初に得られる、「第一麦汁」だけを使うビール。通常は、もろみに再度お湯を加え「第二麦汁」を得て、両方を使う(割合は第一が7、第二は3)。

第一麦汁だけを使えば渋みのないピュアな味を実現できる。しかし、高コストとなってしまう。このため、生産部門から猛烈な反対を受けるが、前田は半ば強引につくり上げていく。

一方、企画部マッキンゼー連合がつくったのは、ドライタイプのビール。パッケージデザインは、我が国広告史に名を残す超大物デザイナーが手掛けていた。

89年年末、社内コンペが実施される。複数回の消費者調査や社内テストの結果、一番搾りは圧勝する。