言葉にできないほどの激烈な経験
死について語ることであらわになる怖れや偏見、もろさは、“死の恐怖から解放されたい”という気持ちをも上回ります。
人生には、言葉では説明できない瞬間があります。ひとつは、答えや意味や真実を求めて、自らの内面の奥深いところに触れるとき。そしてもうひとつが、死ぬときです。
詩人のリルケは、『若き詩人への手紙』の中で、人生の終わりに経験することを、このうえなく崇高に表現しています。死が訪れる瞬間は、死にゆく人にも、看取る人にも、言葉はありません。生と死の境目にいる患者に寄り添うときは、どんな言葉も役には立ちません。
「言葉にできない」という言葉こそ、死という経験を最もよく表現できるのです。人生において、死と同じくらいに激烈な経験は、生まれることしかないでしょう。
だからこそ、私たちはその瞬間を怖れるのかもしれません。自分が死を迎えるか、あるいは愛する人の死に寄り添うとき、私たちは人生で最も大きな不安に駆られるのです。
残り時間がわずかになっても人は幸せを感じられるのか
「命の有限性」について語るには、「時間」というテーマを避けては通れません。私たちに残された時間がわずかになっても、幸せを感じられるのでしょうか?
病気になり、治療のために普段の活動の時間が止められると、時間はもはや秒や分といった単位では計れません。点滴や薬が時間の単位になります。
薬を服用し、医師の回診や検査が終わり、次のときを待つあいだ、時間が止まっているような気がするでしょう。ベッドの横の点滴が一滴ずつ落ちてゆくのを眺める時間は、なかなか過ぎていきません。
私は、患者層の異なるふたつの病院で働いていますが、それは医師として恵まれた経験といえます。ひとつは、サンパウロ州のイスラエリタ・アルベルト・アインシュタイン病院。社会的にも経済的にも恵まれた患者が多い病院です。もうひとつは、同じサンパウロ州にある総合病院付属のホスピスで、ホームレスなどの貧困にあえぐ人たちも受け入れます。両極端な病院ですが、患者が皆、死が近い病人であるという点は同じです。