浮気を疑われた信玄が出した手紙の中身
イメージが先行しやすい信玄の実像に迫るには、本人の手紙が確実だ。信玄は春日源助と名乗る美少年がお気に入りだった。戦国時代において、男色は珍しいことではない。春日源助からもう1人の少年弥七郎との仲を疑われたらしく、こんなふうに手紙で弁解している。
「自分が弥七郎をくどいた事は何度もあるが、いつも腹痛と言って断られた。これは本当のことである。これまで弥七郎と寝たことはない」
組織作りには苦労が多い。ひたすら家臣に気を遣っていた信玄が、心を許せる貴重な相手が、春日源助だったのかもしれない。
この春日源助こと、高坂昌信の著作とされているのが『甲陽軍鑑』である。多くの信玄の伝説を作り出した書物だが、史料価値は低いとされている。信玄との関係性を思えば、さもありなんといったところだろう。
売れっ子だった若きゲーテの悩み
30代のゲーテは仕事に忙殺されすぎていた。
1774年にゲーテの書いた小説『若きウェルテルの悩み』は、フランスの皇帝ナポレオンが何度も繰り返し読むほど世界中で大ヒットとなる。
ゲーテの名は広く知れ渡り、次々と幅広い仕事が舞い込んできた。30歳の誕生日を迎えた数日後には、枢密院顧問官に任命され、ヴァイマル公国の政治家としてリーダーシップをとった。枢密院公使館参事として4年間務めたのちの出世である。
ゲーテは公国の財政難を解消するべく、鉱山の鉱物資源に着目。鉱山開発の実績が評価されての抜擢となった。
ゲーテの職務は多岐にわたった。消防法の改正に携わり、道路の整備拡張の責任者にもなった。また軍事委員も兼任。兵力を削減して軍縮によって、財政の立て直しを図っている。
仕事自体の多忙さや困難さに加えて、ゲーテは人間関係の難しさも抱えていた。
ゲーテは26歳のときに、知人の公爵カール・アウグスト公から招かれるかたちで、生地のフランクフルトからヴァイマル公国に移住している。
つまりゲーテはよそ者だった。
だからこそ、アウグスト公もしがらみにとらわれない改革をゲーテに期待したわけだが、生え抜きの役人たちと渡り合う日々は大きなストレスとなった。
引き立てられたことで、現場では周囲の嫉妬に苦しむことも多かったようだ。八面六臂の活躍を見せるゲーテについて、こんな皮肉を書いた友人もいる。
「宮廷を訪ね歩いてはお世辞を並べているから、あたり一帯の宮廷の執事に早晩任命されるかもしれない」
何もかもに嫌気がさしたゲーテはこんな愚痴をこぼすこともあった。
「誰も知らない。私が何をしているか、そして、わずかなことを成し遂げるにもいかに大勢の敵と戦っているかを」
それでもゲーテは気持ちを立て直し、自分をこう奮い立たせた。
「義務を果たすことは辛い。だが、義務を果たすことによってのみ、人は内面の能力を示すことができるのだ。好き勝手に生きることなら誰にでもできる」