仕事、結婚、育児……人生の大きな悩みを偉人たちはどう解決してきたのか。偉人研究家の真山知幸さんの新著『あの偉人は、人生の壁をどう乗り越えてきたのか』(PHP研究所)より、武田信玄、ゲーテ、ダーウィンのエピソードを紹介する――。

武田信玄がマネジメント上手になった“あるきっかけ”

歴史に名を刻む偉人には、名フレーズがつきものだが、必ずしもその実像を現しているわけではない。「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄もそうだ。

伝・武田信玄像(高野山成慶院所蔵)、長谷川等伯筆
伝・武田信玄像(高野山成慶院所蔵)、長谷川等伯筆(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

「人は城」は「信玄は城を築かなかった」という誤解を生むことになるが、実際は国境の最前線や侵攻先に城郭を築き、支配体制を固めるのが信玄のやり方だ。

また「人は石垣」としながらも、信玄の躑躅ケ崎館つつじがさきやかたでは石垣が確認されているし、「人は堀」についても、半円の堀をともなった「丸馬出し」やブーメラン型の「三日月堀」を使って城郭を守り、信玄らしい慎重さを発揮している。

もちろん、それらのフレーズは「人材が重要だ」という比喩であり、「情けは味方、仇は敵なり」に信玄のモットーが凝縮されているとも捉えられる。

だが、信玄が常に多数の隠密によって、家臣たちを監視していたことを思うと、むしろ味方に対しても警戒を緩めなかったといえよう。それどころか、「女房と寝るときも刀を手放すな」といって近親者すらも信用しなかった。

というのも、信玄は、実の父親である信虎を追放して、21歳の若さで家督を継いでいる。「暴君だった信虎を追放した若きヒーロー」として扱われがちだが、実際は違う。

内紛が凄まじかった甲斐の国をまとめあげるには、信虎のように強い指導者が必要だった。「信虎暴君説」は後世の創作が多い。

信虎は甲斐の財政難を解消すべく、家ごとを対象にした課税を負わせる。家臣たちはそれに反発し、幼い信玄を担ぎ上げて、クーデターを起こしたのだ。そんな背景があるからこそ、信玄からすれば、家臣や身内の家族に警戒してもし過ぎということはない。かといって、父のように強権的に振る舞えば、追放されかねない。

信玄には家臣思いだったとされる逸話が多く、マネジメントの達人のようにも扱われるが、それだけ信玄が家臣を恐れて、気を遣っていたことの表れではないだろうか。