武田信玄がマネジメント上手になった“あるきっかけ”
歴史に名を刻む偉人には、名フレーズがつきものだが、必ずしもその実像を現しているわけではない。「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄もそうだ。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
「人は城」は「信玄は城を築かなかった」という誤解を生むことになるが、実際は国境の最前線や侵攻先に城郭を築き、支配体制を固めるのが信玄のやり方だ。
また「人は石垣」としながらも、信玄の躑躅ケ崎館では石垣が確認されているし、「人は堀」についても、半円の堀をともなった「丸馬出し」やブーメラン型の「三日月堀」を使って城郭を守り、信玄らしい慎重さを発揮している。
もちろん、それらのフレーズは「人材が重要だ」という比喩であり、「情けは味方、仇は敵なり」に信玄のモットーが凝縮されているとも捉えられる。
だが、信玄が常に多数の隠密によって、家臣たちを監視していたことを思うと、むしろ味方に対しても警戒を緩めなかったといえよう。それどころか、「女房と寝るときも刀を手放すな」といって近親者すらも信用しなかった。
というのも、信玄は、実の父親である信虎を追放して、21歳の若さで家督を継いでいる。「暴君だった信虎を追放した若きヒーロー」として扱われがちだが、実際は違う。
内紛が凄まじかった甲斐の国をまとめあげるには、信虎のように強い指導者が必要だった。「信虎暴君説」は後世の創作が多い。
信虎は甲斐の財政難を解消すべく、家ごとを対象にした課税を負わせる。家臣たちはそれに反発し、幼い信玄を担ぎ上げて、クーデターを起こしたのだ。そんな背景があるからこそ、信玄からすれば、家臣や身内の家族に警戒してもし過ぎということはない。かといって、父のように強権的に振る舞えば、追放されかねない。
信玄には家臣思いだったとされる逸話が多く、マネジメントの達人のようにも扱われるが、それだけ信玄が家臣を恐れて、気を遣っていたことの表れではないだろうか。