ガダルカナル島から届いた切実な願い

ガダルカナルの状況は参謀本部の予想以上に悲惨であった。それは第17軍参謀の小沼治夫大佐が打った電報に、《「ガ島」の実情は本電意を尽くさざるを以て服部大佐の現地視察を待望す、当軍司令官以下次期攻撃の必勝を信じあるを以て御安神(ママ)を請う、但し之が為には相当長き準備日数と莫大ばくだいなる物とを必要とすることを御諒承相成度》とあることからもうかがえる。〈軍事史学会編『大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』による〉

「必勝の信念」を強調しつつも、電報ではガダルカナルの状況を説明できないので作戦課長の来島を請い、次の攻撃には相当長期間の準備と大量の物資がいることを述べている。

服部は10月30日に東京を発ち、11月2日、ガダルカナル島に到着した。そして服部は、ここでまた――ノモンハンの戦場でそうだったように――辻政信と再会し、戦場で黒くなったその手を握ったという。

この過酷な状況から帰った服部による報告が11月12、14日に行われたが、ガ島の撤退については一言も触れられていなかった。〈『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦〈2〉』による〉

服部によれば、ガダルカナル島を含むソロモン諸島の航空兵力は海軍が担当していたが、兵力不足を感じた海軍は陸軍航空部隊の進出を要請していた。

陸軍としては中国やビルマなど大陸方面で航空兵力を消耗しており、当初海軍の要請に同意していなかったものの、11月下旬になって第6飛行師団を転用することになった。服部いわく、自分の報告がこの「決心変更の一動機になった」ということだ。〈「大東亜戦争指導に関する回想記録」(防衛省防衛研究所所蔵)による〉

参謀本部と陸軍省の対立の実相

ガダルカナル島を巡る攻防の要点のひとつは、航空兵力にあった。日本側は人、物共に輸送船を使った輸送ができず、積載量が多くない駆逐艦や、ついには潜水艦まで使用する羽目になった。それというのも、制空権が米軍側にあり、輸送船で堂々と人や物を運ぶことができず、速度や隠密性重視の輸送に頼らざるを得なかったからである。

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それはつまり、船舶の損害が増大していることを意味する。海上輸送力は前年比83パーセントに低下し、これに伴って陸軍内部でも対立が起きはじめていた。〈中原茂敏『国力なき戦争指導 夜郎自大の帝国陸海軍』による〉

対立とは、大雑把にいうと船舶をもっと徴傭してガダルカナルに人と物を送り込もうと考える参謀本部と、これ以上民間の船舶を徴傭すれば国力の低下につながると考える陸軍省の対立であった。

服部の戦後の回想では、参謀本部は第2師団の攻撃失敗後もガ島の奪回を諦めておらず、第38師団の輸送だけでなく、朝鮮の第20師団と北支の第41師団をも転用するつもりだったという。〈「大東亜戦争指導に関する回想記録」(防衛省防衛研究所所蔵)による〉

服部はあたかも他人事のように回想するが、彼自身もまたガ島奪回のためにさらなる船舶徴傭を望んでいた。ついでに記しておくと、どうも服部が戦後に書いた回想のたぐいについては、比較的冷静な分析である反面、当事者意識があまり見られない部分がある。