船がなければ玉砕か撤退しかないが…
さて船舶の増徴(さらに民間より徴傭する)についてだが、本来であれば、一時民間より徴傭した船舶は、解傭(徴傭を解く、つまり民間に戻す)されるはずだった。ところが、戦局の悪化によって船舶の被害が増大すると、話は解傭どころではなくなる。
ガ島奪回のためにさらなる船舶を欲する参謀本部と、国力低下を防ぐためにこれを拒否しようとする陸軍省の対立は、結局船舶の増徴を分けて行うという閣議決定に落ち着いた。すなわち、陸海軍合わせて29万5000トン(陸17万5000、海12万)のうち、11月21日と12月5日に分けて徴傭されることに決められたのである。
しかし、この数字は参謀本部の要求より削減されたものであった。当然参謀本部はこれに反発する。戦争指導課長の甲谷悦雄大佐の日記には、「第二課長特に十七万五千で全部と考えらるゝことは絶対に不可」とあり、服部が閣議決定に大いに不満をもっていたことがわかる。
物量を注ぎ込むのでなければガダルカナル島にいる部隊は玉砕するか撤退するかしかなく(実際、海軍側からガ島撤退の意見も出ていた〈井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』による〉)、その場合、敵前で数万の兵士を撤退させるのは非常に困難だと考えられていた。となれば、参謀本部としてはできる限り輸送に力を入れ、ガ島奪回を目指そうとするのはわからなくはない。
エリート軍人同士で殴り合い
参謀本部も陸軍省も、どちらも譲らなかった。この問題は、船舶の第2次徴傭期日である12月5日になっても解決しなかった。
この日、午後10時になってようやく第2次徴傭分は応じることになったものの、参謀本部が要求していた来年1〜3月の船舶必要量(損害補塡分)の16万5000トンは8万5000トンに減らされ、かつ年度が変わる4月以降は18万トンの解傭が要求されることになったのである。
これを参謀本部の面々に知らせる役目を負わされたのは指導課長の甲谷だったが、参謀次長、作戦部長、作戦課長(服部)、指導課員(種村佐孝)らが集まる次長官舎に行ってこれを伝えたところ、「次長特に第一部長激怒」、さらに軍務局長の佐藤を呼び出して事情を聴取して激論に及び、「第一部長激昂して軍務局長との間に夫々二つ宛の鉄拳飛ぶ」、すなわち殴り合いにまで発展することになってしまった。〈軍事史学会編『機密戦争日誌 上』による〉