※本稿は、岩井秀一郎『服部卓四郎と昭和陸軍』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
陸軍にとって初めての決定的な敗北となった戦い
服部卓四郎が歴史の表舞台に登場したのは、やはりノモンハン事件(1939年5月~9月)からといっていいだろう。周知の通り、この時すでに満洲国の建国から7年が経ち、日中間では「支那事変」(日中戦争)という実質的な戦争が始まっていた。さまざまな紆余曲折はあるが、この時まで帝国日本は膨張を続けていたといえる。
これはつまり軍事的には「決定的な敗北」を知らなかったということになる。支那事変はケリがつかずに戦線は拡大していったが、軍に大規模なショックを与える敗北ともまた違っていた。
それが、ノモンハンでは一変した。ソ連軍の前に帝国陸軍は苦戦し、事件終結後は参謀本部と関東軍人事の粛清が行われた。服部が史上に残る重大事件に関わった時、昭和の陸軍は初めて大きくつまずいたのである。本来であれば、これでキャリアが終了してもおかしくはなかった。
失敗したエリートの責任を陸軍が問わなかったワケ
ところが、服部の運命はこれで終わらなかった。申し訳程度の左遷のあと、陸軍中央に復帰した。参謀本部ロシア課長などを務めた林三郎は、戦後の著書『太平洋戦争陸戦概史』でこうした人事を厳しく批判している。
「しかるに、事件に最も大きな影響力を与え、実質的な責任者といわれた関東軍司令部第一課(作戦)参謀の多くは他の閑職に転勤を命ぜられたにすぎない。しかもこれら転勤者はその後、いつの間にか中央部の要職についていた。なかには大本営作戦課の重要ポストを占めたものもいた」
「積極論者が過失を犯した場合、人事局は大目にみた。(中略)一方、自重論者は卑怯者扱いにされ勝ちで、その上もしも過失を犯せば、手厳しく責任を追求される場合が少なくなかった」
林は旧軍人らの動きを警戒する意見書を吉田茂に出した人物である。林の著書の第1刷が出版されたのは1951年、警察予備隊設置の翌年であった。名前こそ直接は出していないが、「大本営作戦課の重要ポスト」となれば服部しかいない。林の批判は、積極論者に甘い陸軍の情緒的体質を衝いている。
子どもの小さな失敗であれば大目にみるというのは必要かもしれないが、ことが人命、それも国家の命運に関わりかねないとなれば話は別だろう。
積極論を唱えて失敗しても大目にみられるとなれば、当事者たちが反省する可能性は低くなる。その結果、過ちはほとんど改善されることなく、より大きな失敗を招くことになる。
ノモンハン事件は服部にとってはスポットライトを浴びる最初の場面ではあったものの、膨張してきた帝国陸軍としては不吉な没落の前兆だったといえよう。ここでつまずいた陸軍は一旦退いて深く反省するのではなく、失敗を取り戻すかのようにさらなる膨張をもとめた。その際に生粋の積極論者である服部という人物が陸軍に必要とされてしまったのである。